”自由はただ、決意と勇気によってのみ守られる。真の勇気は希望のないところにも不動である”
芳賀檀
”平和学とは平和に関する学問ではなく、平和のため、平和を創造する学問である”
児玉克哉
チベットの争乱のニュースが世界を揺るがしている。
中国政府がチベットの独立をゆるせば、火の手は台湾、新彊ウイグル 自治区等にも飛び火し、ひいては目覚ましい経済発展を遂げる沿岸部と、内陸農村部との争いにまで発展しかねない。中国の歴史の半分は、中央政府の強権が緩んだ時代の分列国家状態であったことを思う必要がある。
思えば、この国の共産主義革命とは、中国人の家族主義に基づく、独特の個人主義的メンタリティー克服の試みでもあり、一種の精神革命の試みでもあったのかもしれない。革命時代の強力な精神的指導者を失った今、時代はまた大きな試練をこの大国に課している。
しかし争乱のニュースは中国からだけではない。
ガザを中心とするハマスとイスラエルの闘争、イランを廻る政治的駆け引き、イラク、アフガニスタンから発せられる悲惨なニュースの数々、今だ冷めやらぬバルカンの闘争、独立後の混乱を制しきれず、混迷の道を歩むアフリカ諸国、コロンビアを廻る南米の不穏なニュース。
これらの多くに共通する事は、裏に民族問題、国境問題を孕んでおり、その根は20世紀の争乱の中に撒かれたものであると言うことである。
よく、第二次大戦は第一次大戦の延長であり、その根はさらに普仏戦争、ナポレオン戦争、さらには30年戦争まで遡るとまで言われる。戦争は次の戦争を呼び、その循環は止まる事を知らない。
人類最悪の世紀である20世紀に撒かれ残された課題は、そのまま現代の人類的課題として、私達の生存を脅かしている。
それは、もう一つの人間の戦争である環境問題においても顕著である。
この難局を乗り切るには、私達自身を変える他はない。私達は病的なナルシズムに満ちた自己賛美を止めて、その過去を反省し、その目標と理想を洗い直し、立て直す必要があるのだ。
私達が寄って立つ科学においても、その転換が迫られている。科学は科学のためにあり、モラルの面では中立であるなどというのは、古びた19世紀的な幻想にすぎない。
すべての科学、そして芸術などの文化は、平和という目的に奉仕すべきである。
平和学こそ、そべての学問の基礎であり、未来の総合科学である。
なぜに人間は戦争を行い、それを正当化し、また、自然に対しても闘争を挑むのか。また、それはどのような方法によって克服が可能なのか。
それこそ、人類が追求すべき最も緊急の課題であり、その解明を通して、全く新しい人間存在の地平を開くことが可能となるであろう。
日本では平和学という学問の名前すらそれほど知られていない。
それは、大学において講座すら満足に行われていないからである。独立した学科として講義が行われているのは、今だ一部の大学にすぎないという。
だが平和学は、大学のアカデミーでのみ研究される学問ではなく、広く社会の中に行われるべき学問でもある。
その意味で平和学は、広く万人に開かれた学問であり、市井の庶民がそれに触れてこそ、はじめて本来の意義を持つ学問である。また、それは万人の中に研究されるものであり、真理を知った碩学が、無知な市民に教えを垂れるというような古びた権威とも無縁である。真理は社会の中に、歴史の中に、自然の中に、共々に研究され、確立されねばならない。
難解な問題を難解に語る事は容易ではない。だが、もっとも多岐的で難解な問題を平易に語ることは芸術に等しい。
この短い書物の中には、珠玉の思想が籠められている。
著者はいう。
”平和学とは希望を創りだす学問である”
この言葉ととともに、原爆の炸裂の惨劇を逃れたロウソク一本の灯さえない地下壕で、新たな生命を産み出す母と、最後の命を絞ってそれを介護する産婆の逸話が語られている。
絶望と希望は共に人間の所作であり、それは極限のドラマでもある。
医師であり、高名な作家であったハンス カロッサは、やはり命を賭して子を産んだ母の挿話を書いている。
難産のため苦しむ若い母に、医師は告げる。
子をあきらめればあなたは助かる。だが、産めば、子は助かってもあなたが命を失う。
母は、なんのためらいもなく子の命を救う事を願い、息を引き取る。居合わせた医師や人々は、その厳粛な光景に息を呑み立ち尽くし、言葉もなかったという。これは作家の体験に基づいた実話である。
原始仏典にも同じ話がある。
旅を続ける娼婦である母は、幼い子とともに渡ろうとした大河の流れに呑み込まれてしまう。
子を離せば自分は助かる。だが、子を見捨てる事が出来なかった母は、共に大河に呑み込まれて沈んでしまう。
しかし、そのエゴを超越した生命の力により、死後、共に天上界に産まれたという。
いずれも、弱肉強食、強者生存という、現在の自然科学、経済学でうたわれていることとは対極の世界である。
思えば、もっとも子や家族、身内の生命を尊び、時にはそのために自信の命すら危険にさらす哺乳類が、地球という生命の進化の頂点である事実こそ、この現代思想の誠に手前勝手な解釈の誤謬を語っているのではないだろうか。
”幾万人が死んだというような抽象的な数字ではなく、私たちは被害者の個人の悲劇に注目しなければならない。それを忘れるなら、平和学は単なる軍事学になってしまう。人間の生命の尊さを出発点として積み上げられる理論こそ重要なのである”
これは偉人の言葉と思う。
平和学は涙の学問である。そして平和学は復讐の学問である。
その堪え難い悲劇性を体験し、なおかつ、真っ正面から向かい合う勇気のあるところに平和学は産まれる。
弱者、敗者への同苦なくして平和学はありえない。それは偽善の同情でもなく、センチメンタルで弱々しい感傷でもない。
それは悲劇のまっただ中に飛び込む勇気と、悲しみを背負ってなおかつ前に進む力を必要とする。
感性、想像力の枯渇こそ悲劇の根源である。なぜなら、一人の母、一人の妻、一人の夫に思いを致す時、いかなる抽象化の理論も力を失い、いなかる戦争も正当化することはできないからだ。
平和学の父とも呼ばれるガルトゥング博士の出発点も、父をナチスに殺害されたところにあるという。
そのため博士は、戦後も数十年にも渡って、ノルウェーからイタリア旅行の際も、ドイツを通らず避けて遠回りをしたという。戦争と暴力に対する闘争という、人類の不可能に挑む戦いは、ひとつの復讐の執念から始まったのだ。それはまさに人間自身の中に潜み、歴史を支配してきデーモン(魔王)との闘争である。
本書ではその他、環境問題、移民問題、女性差別問題、防衛問題など、もっとも難しいテーマを正面から取り上げている。
すべては未来を築くためである。
驚くべき事にこの書物は、増刷を重ねてある種のベストセラーともなっているという。
人々が本当はなにを欲しているかかいま見る思いである。
平和こそ人々が希求するものであり、暴力礼賛、財産と資源の一極集中による貧困と破壊など、誰も欲してはいないのだ。メディアこそそれに気づくべきである。平和と希望の創造はある意味、単純で容易いことでもある。
schale
”はじめて出会う平和学”は、平和学の入門書として、児玉克哉博士、佐藤安信教授、中西久枝教授の共著として有斐閣から出版されています。定価1900円。
写真、文、schale
EOS1Ds, 1Dmk2, EF35mmF1.4, EF70-200F2.8IS, EF300nnF2.8IS

