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快晴の山は確かに美しい。しかしどこか味気ない。突然の天候の激変は山にいく人にとっては、ときに命にかかわる重要なことがらである。
それゆえ登山家は、農耕に携わる者のように空と雲を眺める。


世界でもっとも愛され、多くの人に読まれている作家はヘルマン ヘッセである。
ドイツの黒い森にある、小さな美しい村、カルプに生まれ、のちに作家として成功してからは、その生涯の大半をスイスで過ごした。後にはスイス国籍も取得している。

二度の大戦に反対し、ナチスとも対峙した勇気の人である。スイス国籍取得にこだわったのは、そんないきさつも関係していたのかもしれない。

彼の少年時代、日がな一日、小川のせせらぎを聞きながら草原に横たわり、雲を眺め、その流れに見とれ、憧れていたそうである。その自由さ、形にとらわれない魔法のような、その形姿。
雲に旅立ちと郷愁、自由を感じた、幼い彼の感受性はそのまま、世界的作家となってからも作品として昇華された。

優れた水彩画家としても知られるヘッセ。彼が描いた光景は、やはり流れゆく雲の姿であった。
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by schale21 | 2006-03-08 08:54 | 詩と文学 | Comments(15)
Commented by ありゃいん at 2006-03-08 20:33 x
雄大な風景をさりげなく撮られていますが、最後の写真と最後から二枚目はググッと来ました。特に最後の一枚は雲のかかり方が絶妙で非常に標高が高いということことを感じさせられます。

ヘルマンヘッセの事は名前程度しか知らないのですが、スイスという地には過去から’中立’という体制が出来ていたわけですね。

中立というのは見方によっては どちらにも参加しない=傍観者 的に取られてしまい兼ねません。立場的にそれを貫くことは並大抵のことではないと思われます。私は歴史はあまり詳しくないのですが、何故そう(中立国)なっていったのか調べてみたくなりました。
Commented by konishi_yasuhiko at 2006-03-09 01:09
もう20年以上前なのですが、信州のどこかの山に行ったときの宿舎が雲よりも高い位置にあって、ものすごく感動した記憶があります。
曖昧な記憶なのですが、この写真を拝見して青春時代のことを思い出しました。
厳しい自然は色々と教えてくれるものですね。
Commented by schale21 at 2006-03-09 08:39
ありゃいんさん、さすがの洞察です。この問題はいくら論じても足りないですが、おいおい考えを述べたいと思います。いずれにしてもスイスの武装中立は国民の血と肉で、一日でなったものではありません。
ヘッセは青春時代からの愛読書です。また私の恩師の恩師でもあります。ありゃいんさんにもぴったりと思います。おすすめです。

こにしさん、ありがとうございます。そうですね。写真というのはおもしろいもで、被写体と深く向き合うことで、いろいろ学ぶものがありますね。それはこんな自然でもライブハウスでも、街角でも同じと思います。
またこうして一つのものを追求される方々と知り合えるのも、それにもまして素晴らしいことです。
Commented by kojiro-net at 2006-03-11 10:55
山にかかる雲と空にかかる雲。
どちらも雄大で、大きな存在として映りますね。
下から二枚目、空にかかる雲が世界で、屹立した山の姿がスイスのように感じました。
Commented by schale21 at 2006-03-13 21:14
kojiroさん、どうもどうも。標高差が大きく、また平地が曇る事が多いので、雲海はしょっちゅうです。ですが、やはりタイミング次第ですね。先日はすばらしい景色だったんですが、CF忘れてしまって。爆
Commented by stf_y at 2006-04-02 23:40
初めまして、stfと申します。
カプチさんのリンクにタイトルが気になるブログがあるなと思ってクリックしてみたら来てしまいました。

ところで、きれいな写真ですね。それも、"華"なものというよりも、真理を透徹せんとするschaleさんの姿勢が表れているせいでしょうか、澄んだ透明感と硬質感を感じさせる独自の美しさがあります。
私はこういうの好きです。

で、いきなりですが、私の卒論はヘッセの「荒野のおおかみ」でした(笑)

ヘッセの「デミアン」以降の作品の謎めいたものに興味があって卒論を書いたわけですが、他の理由として、ヘッセ研究はドイツよりアメリカで盛んで、ドイツ語がロクにできない私でもドイツ語論文をほとんど読まなくても英語論文でなんとかなるからという実際的理由もありました(苦笑)
Commented by stf_y at 2006-04-02 23:40
(続き)
ヘッセにとって、作品を書くことは精神を研ぎ澄ますとともに酷使し、疲弊させることであったようです。そのヘッセにとって絵を描くことは、精神(Geist)とはある意味対極にある自然(Natur)の美に触れ、その中で「遊ぶ(spielen)」ことであったようです。ちょうど雲が、何ものにも囚われることなく形を変え続け、己があるままに自由であるように。

ところで、ヘッセにおいてこの二極の融合は生涯のテーマの一つでもありましたが、現実に生きるものとして不可能であることも知っていたように私は思います。(もう一つのテーマは"芸術家"と"現実"の関わりにあると思っています。)

その、到達できなくてもなお憬れるというのは、人間の本性なのでしょうか。


……久々にいつもと違う頭を使ったように思います(笑)
それから最後にリンクさせて頂いてもよろしいでしょうか。
まとまりないままですが、今回はこれにて失礼いたします。
また来ますね。
Commented by schale21 at 2006-04-03 06:35
stfさん、はじめまして、来て頂いて恐縮です。作品も拝見させて頂いて、その美しさに驚きました。リンクはわたしの方が先にさせて頂きました。光栄です。

あるいはご存知かもしれませんが、私の恩師である芳賀檀博士はヘッセの友人でした。全集の翻訳も晩年にされました。
また、先生に出会う前から、ヘッセの大のファンで、今日までそれは変わりません。現在は中央スイスにいますが、ティッチーノ州のモンタニョーラの家も訪れてみたいです。

荒野のオオカミとは難しい題材ですね。アメリカで特定の世代に特に人気が高いのはしってましたが、研究も盛んとは知りませんでした。

二律背反はキリスト教、一神教にまつわる宿命的な問題で、真摯にものを突き詰めれば行き当たらざるを得ない問題ですね。東洋では精神と自然の自由さ、奔放さは背反しませんが、キリスト教世界の厳格な精神世界では矛盾となってしまします。自然は罪だからです。

また現実、あるいは生活と芸術もすべての芸術家にとって避けて通れない深刻なテーマです。ヘッセはこういったテーマをもっとも美しい形で書き上げました。

Commented by schale21 at 2006-04-03 06:35
青春が自己と世界の矛盾との葛藤であるならば、ヘッセの作品が世界中の青年の胸を揺り動かすのは当然かもしれません。その意味でまさに真の世界文学ではないでしょうか。
芳賀先生は、その点をふまえ、川端のノーベル文学賞をについて、”彼が新潟の芸者をいかに妖艶に書いたとて、それが世界の青年に何を与えたか”と疑問を唱えておられました。
長くなってしましました。
いつでもお越し下さい。大歓迎です。またメールくださっても結構です。
それでは。
schalephoto@yahoo.co.jp
Commented by stf_y at 2006-04-03 22:24
芳賀檀氏をご存じだったとは、すごいですね。ちなみに私は全集の翻訳者の一人としてしか名前を存じていませんでした。(私はヘッセは主に高橋健二氏の訳で読んでいます。)ちなみに最近また日本の研究グループで新たな全集の翻訳が始まったようです。ただ私の卒論に関して言えば、日本人の研究者の論文は役立たずなものばかりでしたが・・・。

ヘッセも「荒野のおおかみ」も、アメリカでヒッピー文化が栄えた頃に一躍有名になりましたが、それ以後も一定の人気があるようで、90年代~最近まで英語の論文が書かれ続けていました。主に「デミアン」以後の後期の作品についてが多いです。

「真の世界文学」、確かにそうですね。内面世界と外的世界という、二つの世界を見事に描いたという意味であれば、なおのことですね。

そして川端康成……そういえば読んだことないです(爆)


最後に私はヘルダーリンも好き(でも詳しくない)ですが、他にビューヒナー、ツェラン、ドストエフスキーも好きです。
またお話させてください。
ではでは。
Commented by schale21 at 2006-04-06 08:36
芳賀先生をご存知の方がいて嬉しいです。
私が知り合ったのはもちろん晩年ですが、ドイツのフライブルク大学に先生が招待されたとき、たまたまフライブルクにいた私はお会いする約束でしたが、手紙に行き違いで果たせなかったのが残念でなりません。

先生とはヘッセの話もよくしましたが、若い時の作品を特に評価されておりました。そういった意味ではアメリカでの評価のされ方や、研究はそういったわたしにとってはちょっといびつなものにも感じますが、彼の一面の捉え方ではあるかもしれません。実際彼の精神的な危機は深刻なものであったようです。
Commented by schale21 at 2006-04-06 08:42
あげられた名前を拝見してると、stfさんの文学趣向はほんとに本格的なものですね。ビューヒナーについては恥ずかしながらほとんど存知あげておりません。
ドストエフスキーはもちろん大変感銘を受けてますが、年とともに何度も読み直す必要を感じています。
ツェランも芳賀先生に勧められましたが、難しくて。
ヘルダーリンやツェラン、ハイデッガーの著作を翻訳で理解するのは無理と思いドイツに渡りましたが、20年後の今日でもやっぱりわかりません。笑
最近は政治的な問題に関心が多く向いて、あまり文学に触れてません。
いちどゆっくり語り合いたいですね。
ご希望のテーマや話題があれば是非お知らせ下さい。出来る範囲で取り組んでみたいと思います。
Commented by stf_y at 2006-04-07 21:35
三度失礼します。
ヘッセですが、日本では「車輪の下」に代表される前期の作ばかりが有名ですが、実は私はこの作品にあまり興味がありませんでした。私はやはり「デミアン」~「ガラス玉演戯」に至る後期の作が好きです。もっとも「どちらがいい」というようなことはなく、それぞれヘッセの追求する方向性の違いだと思いますが。

それから、私の文学趣向は全然大したことはないんです。知っている範囲が狭く少ないだけなので・・・。しかもハイデッガーにいたっては読んだこともないですし、そもそも哲学は実はとても弱いのです。フロイトやユング、ニーチェや神学の知識を若干持っているのがせいぜいで、大学でもこの分野では友人の話に全然ついて行けませんでした(苦笑)それからツェランやヘルダーリンは大学の講義で触れない限り、私にとってもまったくもって理解不能でした。
Commented by stf_y at 2006-04-07 21:36
ゲオルク・ビューヒナー(Georg B"uchner)はドイツ文学専攻以外の人で知っている人はまずいません。ドストエフスキーやニーチェよりもさらに前に、無神論的な考えにたどり着いてしまった人であり、かつ同時に革命の活動家でもあったという異色な天才です。本国ドイツではビューヒナー賞というのがあるくらいで、日本の芥川賞に匹敵するような賞になっていると聞いたことがあります。唯一の日本語訳はもう数十年間絶版で、図書館で読む以外にないのが残念です。

ツェランはまったくもって意味不明なものが多くて私もさっぱりですが、その詩に通じる独特の「無」の感覚は、何かブラックホールの如く惹かれるものがあります。
様々な具体的な言葉(眼球、土、壁、氷、etc...)を用いることで、逆説的に永遠なる「無」というべきか、「無の者」を表現しようとしたかのような印象があります。しかしもちろん「無」を捉えることは出来るものではなく、どんな言葉もその「無」へと吸い込まれて消えてしまうかのような印象があります。
・・・あくまで私の印象ですが。
Commented by stf_y at 2006-04-07 21:37
私自身は大学を出て仕事をしてからロクに文学自体を読まなくなってしまっていますが(苦笑)、ここに来て久々に刺激を受けました。また何か思うことがあったときにでも、書き込みに参りたいと思います。
長々と書いてしまいましたが、またよろしくお願いします。
ではでは。


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