第二回 人生の闘将 ヘルマン マイヤーの挑戦
『登れば登る程、人間の限界はなおいよいよ遥かであった』
芳賀檀
トニー ザイラー、フランツ クランマー、カール シュランツ、私が会った超一流のスキーヤーの目はみな鋭く美しく透明であった。
それは獲物を狙う猛禽のようである。
急斜面とスピードに打ち勝つ精神力のためであろうか。あるいは自身の恐怖に打ち勝つ闘争心のためであろうか。
しかし、マイヤーほどの妥協なき、恐るべき目を私は知らない。
それは人生と自らの運命に闘争を挑む者の目である。
オーストリア、ザルツブルク州の郊外、フラッハウ、ポンガウなどからなる広大なスキー場は、アネマリモーザーなど、歴代の数々の名スキーヤーを産み出して来た地であ
った。
またスキーを国技とするスキー大国オーストリアの中でもとりわけスピードレースの盛んな地であり、現在のレース界を支えるアトミックスキーの本拠地でもある。
若きマイヤーは喘息持ちの、痩せた、むしろ虚弱な少年であった。
スキー学校の経営に携わる父の影響のみならず、この国のとりわけこの地では、世界的な競技選手になって母国にメダルをもたらす事は、多くの少年が憧れる、特別な人生の成功を意味していることである。
マイヤーの試練はすでに少年時代にはじまった。
母国の誇る、スキー選手養成学校。地元のこのスキーエリート校に入学はしたものの、体格、体力不足、才能不足、これが後に歴代最高のスキーレーサーとも言われる彼に対する評価であった。今日では信じられない評価である。
加えてスキーヤーにとって命であるひざの故障。
しかも喘息には高地でのスポーツは厳禁と言われる。
国内で優秀な成績を収めることは、即世界的選手であることを意味するような環境で、この学校から退学となることはむしろ当然であった。
理由は ”才能不足、将来性なし”!
当時の彼の、スポーツとしてのスキーに関する才能については私の評価し得えるところではない。
彼にはしかし、凡人には決して持ち得ない並外れた才能が一つあった。
それは敗北を敗北として受け入れない、並外れた闘争心であった。
いかなる現実の敗北も、優れた専門家の評価も、彼の闘争心を覚ますには足りなかった。まるでそんなことには無関心であるかのように、自身の夢を追い求めて止まなかった。
それはいつの日か、母国に、そして自身と自身を育ててくれた両親のために、オリンピックの金メダルをもたらす事であったという。
この国のスキーレベルはあまりに高く、その層はあまりに厚い。
例え日本や他国ではその例すらほとんどないワールドカップでの優勝経験や入賞経験が何度もあっても、オリンピックや世界選手権の国内枠に入る事すら出来ない選手もまれではない。
そのために国籍すら変える者がいる程である。
マイヤーはその後もそんな地元のアマチュアレーサー、ホビーレーサーとして競技を続けた。
人生はしかし、彼の闘争心を試すかのように、またも大きな試練を与えた。
一家の家計を支える父が、自宅の改装の途中、屋根から滑落し、大怪我をおってしまう。
夏は壁職人、冬は地元のスキー教師として家計を支えざるを得なくなった彼は、チロル州、ザンクトクリストフのスキー教師養成学校でスキー教師として本格的訓練を受けることとなった。
このオーストリアが世界に誇る基礎スキーの総本山での訓練、そして壁職人としての過酷な労働が、後に誰も想像し得ないような成功の基礎をもたらすことになったのである。
ヨーロッパでのセメント袋の重さは50kg(日本は25kg)。このセメント袋を何度も何度も担ぎ上げる辛い労働。一般スキーヤーを相手のスキー講習、レースに打ち込むこことの出来ない思い通りにならない環境。
しかし、この環境こそが、常識破りの”史上最高のスキーヤー”を造り上げたのだ。
この労働を通し、マイヤーの肉体は、かつて虚弱、華奢と言われたののが嘘のような強靭なものとなった。
プロレスラーのような筋肉の塊。しかしそれは、ジムのみで鍛えられたものではなく、土方仕事を通して、実戦的に鍛えられた肉体であった。
また彼の基礎スキー技術は、後のナショナルチームでも最高と言われるものとなった。深雪を滑らせれば並ぶ者はないとも言われる。ナショナルチームで最も”スキーが上手い”と言われるその技術は、オフピステスキー世界選手権の上位を独占するアールベルグのスキー学校で学んだものであった。
その技術のため、視界が悪く、ピステが荒れて条件が悪ければ悪い程、さらに並外れて強いというマイヤーの伝説を産み出すこととなった。
そんな中、アマチュアレースを続ける彼を後押ししたのは、彼を少年時代から知る地元の恩師であった。
彼に最後のチャンスをと、ザルツブルク州のチーム責任者であった恩師の裁量でヨーロッパカップに。
そこでいきなりのシーズン優勝。同じ年に、ワールドカップに前走者として出場。
前走者にも関わらず、”全力疾走”した彼のタイムはなんと上位入賞者と同じ。そのデビューからして、あまりに型破りであった。
翌年、伝統のドイツ、ガルミッシュパルテンキルヘェンのスーパーGで初優勝。
時すでに25才!
スイスの伝説的名選手、ツーブリッゲンの引退年齢が27才であったことを思えば、いかに遅咲きであったかがわかる。
彼のフォームもまたあまりに型破り。大回転の名手、その美しいフォームで知られるグリューニゲンをして唖然とせしめるものであった。
しかし2位に2秒以上の差をつけて勝ち続ける選手は(1位と2位の差が、2位と30位ぐらいある)、皇帝クランマー以来のことである。
この予期せぬ突然のデビューに、オーストリアマスコミはオリンピックを前にして騒然となった。
長野オリンピック。
それは彼が少年時代から夢見た舞台であった。
そして初日の花形競技、ダウンヒル。
当日になり雪の問題で、練習時の旗門とは微妙にコースが変えられた。
私は今でもこの変更に疑問をもっている。当代の滑降トップ選手のほとんどがコースアウト、下位の成績であったことがそのことを物語っている。
オリンピックとは、古代ギリシャ以来、世界最高の者を選び出す舞台であるはずなのに。
そこは限界まで戦いきる男の中の男(女性であっても)、最高の人間を選び出す舞台であったはずなのに
彼はこの変更となった旗門を通過するにはあまりに速過ぎた。
その選んだコースはあまりにも直線的であった。
初回の計測ですでにそれまでの1位に1秒以上の差。
完走すれば想像を絶するタイムでの優勝であったはずだ。。。
この時コースアウトした彼が空中を飛行した距離は60mとも80mとも言われる。
ジャンプ競技に参加すれば良かったのにとも揶揄されたその飛行は、3重の安全フェンスをも飛び越えた。
常人であれば、死か半身不随を意味するような時速百数十kmでの転倒であった。
しかし、彼の精神、肉体はあまりに強靭であった。
まるで平凡なスキー教師のように、何事もなかったかのように自らスキーを担ぎ上げ、深い深雪をかき分け立ち上がった。
彼が空中で考えた事、それは恐いではなく、 ”ああ、これで子供の頃からの夢であった金メダルを逃した” ということだという。
そのわずか二日後の大回転、後のスーパーGで二つの金メダルを手にすることは誰にも想像出来ない事であった。
この転倒によって超人はしかし、3つの金メダルを手にする以上の伝説を造り上げた。
その後のキャリアは、まさに空前絶後、想像を絶するレベルのものである。
デビュー後わずか4シーズン、数々の記録を塗り替えるそのキャリアの絶頂の最中のことであった。
トレーニングの帰りの途中のオートバイ事故。
過失は相手方にあった。
世界的なスポーツ選手に重傷を負わせてしまった老年のそのドライバーを気遣い、相手のことはほとんど語っていない。
医師の診断は、普通なら片足切断。車椅子ではなく自分の足で歩けるようになればむしろ幸運。
度重なる手術をへて、スキー靴をはじめて履いたのは2年以上たってからのことであった。
しかし1時間で足は腫れ上がり、それ以上滑る事は出来なかった。
事故から3年。かつて神懸かり的な強さを誇ったスーパーG、舞台は地元ともいえる伝統のキッツビュール。
傷跡は今だ生々しく、片足のスキーブーツも特製であった。
その数ヶ月前、大回転の名門、スイスのアーデルボーデンで再びワールドカップの舞台に立ったことすら奇跡と言われた。
ライバルはやはり逆境を克服して、歴史に名を残すスターとなった同僚エバーハルター、アメリカの新星のスーパースター、ボーデ ミラー。
なみいるライバルを押しのけての彼の優勝は、自身ですら信じられないことであった。
鬼のような恐ろしい形相のマイヤー。その鬼の目にも涙が光った。
マスコミはマイヤーも涙するのか、やはり人間だったのかと書き立てた。
しかしそれは単に、スポーツ競技に優勝した喜びではなく、自身の運命に不可能の闘争を挑み、勝ち取った者の涙、人間の限界とその力を示した者の涙であった。
彼もまた、人間が運命の奴隷ではないことを、運命を支配するのは、神でも他者でもなく、人間の不屈の意志に他ならない事を指し示した。
限界に挑む者に対する憧憬。
それは人間独自のものである。
”私には、功利を越えて人間は人間の限界に挑む性向があるとしか説明できない” という微生物学者ルネ デュボスの洞察と直感こそ真実であるのかもしれない。
schale
撮影 schale
アーデルボーデン 大回転でのマイヤー
ライバルたち
天才スキーヤー、ベンジャミン ライヒ
アメリカのスーパースター、ボーデ ミラー
レースの前に行われた航空ショーにて
伝統のラウバーホルン、ダウンヒルのマイヤー