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褐色のギリシャ兵 - 芳賀檀の精神

『いつになったら又御目にかかれるのでしょう?
私達は、世界の限界の深部に於いて再びめぐり合うであろうと師は云われました。
曾てヘラクレイトスや印度の詩人たちが言ったように。ーーー
私にとっては師とともにすごした日々こそ真の故郷です。
師は再び私をあの河の畔りで優しく待ちうけていて下さるでしょうか?
曾て私達が逍った河の畔りで。ーーーあの輝く大理石の円柱の傍らで』
                                             芳賀檀    友情の書より



 出会の奇跡

”全て人間と世界への信頼を失った私にとって、もはや生は無意味なものだった。
死を決意した私は、ケルンを流れるラインの河畔を彷徨った。
ラインの流れは早く深かった。
すると前方から、黒い服に身を包んだ、一人の背の高い男性が向かってくるのが見えた。
それは、普段からその講義を傾聴し、敬愛していたケルン大学のベルトラム教授であった。
私を見て、ただならぬ様子に気づいた博士は、どうかなさったのですかと優しく声をかけてくださった。
博士は私の話を聞いた後、その花に囲まれた美しい庭園のある自宅に招き、勇気づけてくれた。
博士の偉大な精神は、私の卑小な心を包容し、そして昇華させるかのようだった。
私はそれまでの狭い世界が崩れ落ち、全く新たな世界と生がはじまるのを感じた”

ーーーーー 

私の恩師、芳賀檀博士がケルン大学教授エルンスト ベルトラムの元に学んだのは、1930年代のことであった。ベルトラムはニーチェ研究の大家としてすでに高名であった。
その以前は黒い森の麓の大学町フライブルグで、ハイデッガー、現象学の提唱者、フッサールのもとで主に哲学を学んだ。同期の学生で最も有名なのがサルトルであった。
サルトルは後に、ハイデッガーの哲学を独自の解釈で文学化したが、ハイデッガー自信はサルトルの文学、哲学を自分のものと同じとは認めなかった。
しかし現代においては、文学と哲学は同じ根を持つ二本の木と語って、ともに人間存在の解明こそその使命であると表明している。この意味において、哲学的思索なき日本の文学は、近代的な世界文学の名に値しないと芳賀博士が考えたのも当然であったろう。
 
ハイデッガーの師であったフッサールはすでに退官していたが、彼のフライブルグの自宅で、外国からの研究者に現象学を紹介するため、少数の個人的なサロンがもたれていた。芳賀檀はその中の一人だった。
ケルンでベルトラム教授に師事した際は、ベルトラムを取り巻く、芸術至上主義者達と親しく交遊、深い影響を受けた。その友情は終生変わらず、中でもハンス カロッサ、シュテファン ゲオルゲ、ヘルマン ヘッセとの交流は最後まで続いた。
そしてドイツ留学時代、最後に学んだのがエルンスト ユンガーである。
日華事変にともない、ベルリンから帰国の途につく芳賀博士を見送ったのはユンガーであった。
最後まで、ホームから姿が見えなくなるまで手を振ってくれていたその姿は、終生忘れられなかったという。ベルトラムとともに,芳賀博士に学問の深さのみならず、その人格を通して敬愛せしめたのも彼だった。

ユンガーもベルトラムも芳賀も共通する事は、常に誤解と無理解にさらされ続けた事である。
極端な評価と誹謗は生涯その身を包み、常に孤独であった。
だが、その人格は卓越しており、歴史を見下ろすような巨視的な視野は、20世紀の精神史の巨人であるというにふさわしい。そして、その精神に対する無理解は今日でもいささかも変わらない。

人類は、ヘルダーリンを発見するには第一次大戦の悲惨を経なければならなかった。
やがて未来の人類が、その新たな悲惨を持って、美と深淵の悲劇を、贈与の精神の深さをやがて理解する時が来るのであろうか。

ーーーーー

檀の父、芳賀矢一は、明治きっての文化人として、明治政府肝いりの学者の一人であった。
ドイツ文芸学を日本に移入すべく、ドイツに渡った矢一の下には、森鴎外、夏目漱石などの文人が頻繁に訪れ、芳賀邸はさしずめ、文学的なサロンの様を呈していた。
矢一は息子の檀にドイツ語で教育を授け、そのおかげで檀が東大に進学する頃には、大学のどの教員よりもドイツ語が達者だったという。
東大ではシラーを専攻していたという檀は、ある教員のすすめでドイツに渡った。
費用は大学で負担し、帰国後は教職が約束されているはずであった。
当代を代表する大学者達のもとで学ぶ学問は、日本のそれとはあまりに次元をことにするものだった。
約束の費用はいっこうに届かなかったが、後に人参をかじりながら学んだその時代ほど充実した時はなかったと語っている。

そんな時、ケルンに在学中の芳賀のもとに届いた手紙は衝撃的なものだった。
”状況が変わったので、以前の約束はなかったことにして欲しい。費用も送る事はできない”
後になってわかったことは、ドイツ留学とは、体よく芳賀を大学から追いやる画策に他ならなかったことである。それは芳賀を妬む人々の画策であった。
金のことでもない、生活のことでも将来の地位のことでもない。
芳賀を傷つけたのは、心を引き破る人間のその残酷さであった。
それは名家である芳賀邸に育ち、人間を信頼することこそ美徳と信じ教えられて来たものにとって、世界が崩壊するに等しかった。
人の裏切り程残酷なものはない。この世で最も美しいものが友情であるならば、この世でもっとも恐ろしく残酷なのも人の心である。

死を決意した芳賀はラインのほとりを夢遊病者のように彷徨った。。。
この時のベルトラムとの出会いはまさに運命だったのかもしれない。もしこの世に運命というものがあるのならば。
人生に意義があることを示す唯一の方法がある。それは、人間の愛と友情が、死を越えて力を持ちうるという事実を知る事である。
それ以外の全ての思想は、ニヒリズムに行き着く他はない。
死すべき存在である人間は、死を越える力を得てはじめて、その存在の意義を知ることができるのだ。
 


付記
その後芳賀は日華事変勃発を機に帰国。
保田与重郎などと共に日本浪漫派の代表者となる。『古典の親衛隊』、ナポレオンを題材にした『英雄の性格』、『方法論』など多数の文芸評論を手がけ、若手文芸評論の騎手と目された。
しかし、戦中もナチスのユダヤ人政策などに明確な批判を加えたにも関わらず、戦後、文化人戦犯として問われ、事実上、日本文壇から抹殺される。この規準では日本のほとんど全ての文人、文化人が芳賀以上の戦犯であるにも関わらず、罪を逃れたのは、彼らの節操なき戦後の変わり身の早さを示す以外の何物でもない。
彼らの書いたものを一瞥するだけで、人間とその歴史の真実とはいかなるものか、その一端を知ることができるだろう。
戦後は諸私立大学で教鞭を取る傍ら、フルトベングラー、ヘッセ、ニーチェ、カロッサ、キルケゴールなど多くの翻訳を手がけた。
晩年に、それまでの思想を集大成するかのように、詩集、戯曲集を出版(詩集アテネの悲歌、詩集背徳者の花束、戯曲集レオナルドダビンチ、戯曲集千利休と秀吉など)。また最晩年に念願であったヘッセ著作集も手がけた。


ドイツ時代の芳賀檀 1934年

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若き日のハイデッガー
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M ハイデッガー、E フッサール
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E ベルトラムの主著, ”ニーチェ、ある神話の試み”
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by schale21 | 2008-01-11 08:49 | 詩と文学 | Comments(1)
Commented at 2014-10-01 16:51 x
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