褐色のギリシャ兵

 
芳賀檀の文学

私が研究室を訪れると、ご高齢だった先生はゆっくりソファから立ち上がられ、深々と頭を下げられた後、よくいらしていただきました。お茶はいかがですか、と言われ、決まって自ら紅茶を入れてくださった。それが二十歳そこそこの、一学生に過ぎない自分に対する、大碩学として内外に知られた学者の姿であった。私は、その深淵な文学的著作と相まって、何よりその人格に衝撃的な影響を受けた。
それは自分の人間観を根底から覆すほどのものだった。
(当時、私は文学部ですらなく、法学部で政治思想を学んでいた。勝手に先生を慕って講義や研究室に顔を出していたにすぎない)

ある日の午後、講義の合間に二人でニーチェについて語り合った際、会話に夢中になって時間を忘れ、講義の時間をとっくに過ぎてしまい、走って講義室に向かったものの、学生達はすでに帰った後だったこともあった。今となっては美しい青春の思い出である。
その後、ドイツのフライブルグ大学に招聘された先生に、当地にいた自分が行き違いでお会い出来なかったことが何より悔やましい。後のお手紙によると、私とビールを飲みかわし、朝まで語り合う事を楽しみにされていたそうである。博士の最晩年のことである。だが、常に青春の中に生きておられた先生であった。
学者の道を歩まなかった私は、未だ先生にお見せ出来るような仕事も成し遂げておらず、人格も未熟であることを恥ずかしく思う。自分がこの10年ほど、平和学(戦争学)に関心を寄せるようになったのも、せめて、万分の一でもその思想を継承したいという無意識の思いがあるのかもしれない。

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芳賀檀を理解出来る文学者は、あるいは日本にはいないかもしれない。なぜなら日本には哲学がない。すなわち真の知識人はいない。そして、それは文壇の世界ではなおさらである。
だが、確実なことは、その精神を理解出来る、無名の青年達は必ずいるということだ。

先生はよく語られていた。”川端が新潟の芸者をいかに妖艶に書いたとて、それが世界の青年に何を与えたか!” ”ノーベル賞などというものは、こちらから与えるものであって、もらうものではない”
日本の文学者では、白鳳(万葉)時代を別にすれば、芭蕉のみ世界文学として高く評価されていた。リルケに並ぶとも示唆されていた。また、近代文学では、父上(芳賀矢一)と交流の深かった鴎外先生と漱石先生を別にすれば、堀辰雄氏のみ、文学的にも人間的にも高く評価されていた。三島(由紀夫)氏とは交遊は深かったが、私自身はその文学についてはなんの評価も聞いた事はない。ただ、時折、彼と付き合っていたおかげで、右翼とよく間違えられ困ったと笑いながら語られていた。だが、晩年編集された詩集、アテネの悲歌では、死に際して三島に贈る詩を残されている。その文学的才能は認めておられたのは間違いない。

専門とされていたのはもちろんドイツ文学であるが、日本をはじめ、世界文学、哲学に造詣が深かった。
フランスの実存哲学者、ガブリエル マルセルと交遊も深く、フランス文学についてもよくお話を伺い、言葉も堪能で、ビクター ユゴーやポール ヴァレリー、スタンダールを特に高く評価されておられた。
とりわけ、ヴァレリーの貝殻の唄は、リルケに通じるものとして、しばしば言及されている。

師とも恩人とも慕われていたヘッセの作品の中では、若き時代のものをより高く評価されていたのが印象に残っている。
リルケについてはもちろん第一人者であり、世界で最初にドイノの悲歌を外国語に全訳されたことを大変誇られていたが、反面、この歳になっても、その深遠さはいまだに本当にはわからないと正直に語られていた。
また、キリスト教と西洋近代史には大変批判的で、晩年は自ら仏教徒ともなられたようだ。 
この点では、晩年に交遊を持たれていた池田大作氏の影響もあったようだ。内外に何かと批判の多い池田氏であるが、先生はそんなことは歯牙にもかけず、30歳以上年下の池田氏について、”池田先生は天才である。自分の交流は光栄この上ない。先生はアンドレ マルローやアーノルド トインビーとも対談されているが、マルローが訪日の際、朝日新聞が日本を代表する文化人として知られる、Kとの対談を企画したが、Kはくだらない話ばかりして、マルローはしまいにあくびをし始め、対談にもなにもならなかったという。日本と世界の頭脳にはそれほどの差がある。日本で20世紀を代表するような哲学者と対等に話が出来るのは池田先生だけである”と何度も自分に語って、この点についても衝撃を受けた記憶がある。

博士の著作は、文芸評論家として高名だった戦前のものと、晩年のものに大別される。
その間の多数の翻訳や、評論集はよく知られた通りである。
だが、若き日から、その文学的精神の規準はなにも変わっていない。晩年には、その美しい精神を、詩や戯曲にこの上なく見事に昇華され、描き出された。
最後の著作の一つである”死について”では、癌を宣告された自らの体験を通して、哲学史を再度見直され、さらにそれを一般の人々が誰でも触れられるようにするために努力された。
高潔な精神も、深淵な文学も芸術も、そして死というもっとも切実な実存の問題も、全てあたりまえの人間に奉仕するものであるということが、その哲学の要諦であったからだ。
”芸術のための芸術”という命題も、政治や経済に利用される事なく、人間のための芸術であり続けるという宣言にほかならない。ハイデッガーのもとで共に学んだサルトルの、”アフリカで飢えた子供が死んでゆく間に、芸術はなんのためにあるか”という有名な命題をしばしば引き合いに出されていた。
そこに浮かび上がるのは、人間から離れた青白い近代のインテリの姿ではなく、古代ギリシャの理想の姿、健康で誇り高い男子の姿である。
博士のドイツ時代のあだ名は”褐色のギリシャ兵”であったという。それはステファン ゲオルゲやベルトラムが名付けたものだったのかもしれない。だが、これほど先生の姿を伝えるにふさわしい言葉もない。
テニスやスキーも愛好され、留学時代には、現地の人々以上の腕前であったことをよく誇りにしておられた。

私は、ここに、失われて久しい、全人的な真の知識人の理想の姿を見る思いがする。
真の知識とは、人間と宇宙、幸福と平和への知識であって、それは絶対的な健康を伴う知識である。
今、人類が、心身ともに衰弱しきって、死滅の際にあるこのとときこそ、再び古代の理想の姿を思い起こすべきではないだろうか。


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by schale21 | 2008-01-12 04:31 | 詩と文学 | Comments(2)
Commented by demian at 2008-01-12 23:49 x
芳賀檀氏のエピソードを読むことが出来て、嬉しく思います。芳賀氏の著作、翻訳書は、そのほとんどが古書でさえ入手が難しくなっていますから。作品の紹介もしていただけると、非常にありがたく思います。
Commented by schale21 at 2008-01-13 05:34
demian さん、ほんとうにありがとうございます。
芳賀先生のことについては、あまりに身近すぎて書くつもりはありませんでしたが、demianさんの励ましもあ利、とりあえず一部を記事にしてみました。

作品については、読者もその機会もほとんどなく、難しい面もありますが、時間をかけて一部は紹介させていただくことにします。
まあ、書くのはいろいろと勇気はいるのですが。


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