Wind of Change

第一回 ショプロン

”僕は聞いた。モスクワのゴーリキ公園に立って。
それは、世界が変わりゆく風のささやきだった”
       Scorpions


1989年夏、私は連日テレビのニュースに釘付けになった。それは私だけでなく、全ヨーロッパ中の人達も同じだったことだろう。

オーストリアの首都ウィーンから、ハンガリーの古都、ショプロンまでは50kmあまり、後のスロバキア共和国の首都、ブラチスラバ(ドイツ名プレスブルグ)まではわずか60km。
このオーストリア、ハンガリーの国境と、ハンガリーの首都、ブタペストの中間あたりに、ハンガリーの海とも呼ばれる巨大な湖、バラトン湖がある。
バラトン湖は、ステップ湖特有の浅い水深による温かい水温と、風光明媚な周囲の景観とあいまって、東欧屈指の夏のリゾート地として知られていた。

当時の東欧諸国の人々にとって、世界は、私達が今日知る世界の数分の一の広さしかなった。それは、一部の外交官や政治家、スポーツや芸術分野での著名人を除いて、一般の庶民が共産圏諸国の外に出る事は生涯叶わぬ夢だったからである。
鉄のカーテンは、文字通り越える事の出来ない、有刺鉄線と銃弾の壁だったのである。

だが、時代は変わろうとしていた。
農民出身の一人の共産党指導者、ミハエル ゴルバチョフの登場によって、残忍なスターリン主義の修正が計られ、”人間の顔をした社会主義”が新たな指標として掲げられていたからである。
私はこの、経済的、社会的必要に迫られていたとはいえ、外からの圧力のためではなく、権力内部からの平和的手段によって成し遂げられた変革、自らの絶対的権力の一部を自発的に放棄するという行為は、いくら賞賛しても足りない人類史的な意義を持っていると考えている。
それは古代インドの伝説の帝王、アショカ大王の先例以来の歴史的快挙であった。
それは、凍てつくシベリアの大地に吹きすさぶ冷酷な寒風に替わって、生命を育む、早春のそよ風にに似ていた。
そしてその早春の風が溶かしたのは、何にも増して、凍てついた人々の心の壁だったのである。

すべての変革は心の変革からはじまる。
故に、人の心の変革を成し遂げるものこそ、真の変革者であり、時代の創造者である。
それはイエスにおいても仏陀においても、また、孔子においてもマホメットにおいても同じだった。彼らは、真に人類の教師(カール ヤスパース)だったのである。

この夏、いつものようにバラトン湖畔は東欧、とりわけ東欧の優等国、東ドイツの人々でにぎわっていた。だが、その人々の間に思いもかけない噂が広まった。
もしかしたら、ソ連の介入なく、オーストリア国境を越えられるかもしれない。
瞬く間に人々はショプロン近郊のオーストリア国境に集った。ハンガリー側の国境はだが、今だ、閉ざされたままだった。
辛く、暗い記憶が蘇った。
それは、重戦車と機関銃の騒音がけたたましく響く、ハンガリー動乱、プラハの春にともなうソ連軍の軍事介入の思い出であった。
閉ざされた国境に集い、不安な日々を送る人々の姿は、ウィーンから世界中に放送された。
クレムリンの動向を伺いながら、決定を躊躇するハンガリー政府。
国境で送る一日一日は、まるで一年のように長く感じられた。
だが、ついに歴史的な決定は下された。
かつての鉄の国境は扉を開けて、人々は長く塞き止められた奔流のように堰を越えた。
ニュースを聞いた人々は、東ドイツ全土からこの国境に集結した。
その、小さな名もなき国境の扉は、人間の新たな時代の幕開けを開く扉だった。


ドイツの世界的ロックバンド、Scorpionsの曲、Wind of Changeはこちらでご覧頂くことができます。

http://www.youtube.com/watch?v=taVW8Kv2HcQ&feature=related



この東ドイツ休暇客のオーストリア越境が、のちのベルリンの壁撤去、ドイツ統一、ソ連崩壊につながる東欧改革の第一歩でしたが、著名な平和学者、児玉教授のご希望もあり、不定期になりますが一連の変動を数回に渡って取り上げたいと思います。
ただし、記事はすべて主観的な一種の思い出としてのもので、客観的、学的術なものではなく、立場や時代によって大きく異なる点があることをご了承ください。


写真、文 schale
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by schale21 | 2008-02-13 09:28 | Wind of Change | Comments(8)
Commented by Capucci-mm at 2008-02-13 17:29
この変革の時代を目の当たりにした私たちは運が良かったのかも?
Commented by schale21 at 2008-02-15 06:22
カプチさん、そうかもしれません。
いずれにしても僕たちは、歴史の証人であると同時に、責任者でもあると思います。
Commented by 児玉克哉 at 2008-02-19 20:06 x
ショプロンは私が国際平和研究学会事務局長として総会を開いた都市です。三重大学から20名の学生を引き連れて、ショプロンの町で400名の国際会議を開催した時の思い出は今でも鮮やかです。ショプロンの中世の雰囲気のある街並みもかわいらしく思いました。NHKの番組でショプロンから東西を分けていた壁が崩されたことが放送されていました。それだけにヨーロッパピクニックの場を訪れた時は特別な感慨もありました。不定期に書いていただけるとのこと、楽しみにしています。
Commented by GEM at 2008-02-19 22:59 x
こんばんは
これがきっかけだったんですね。少し 違いますがマルコス政治の終焉、東西の鉄のカーテンの撤去 わくわくしながらTVを注視していた記憶があります。一つ疑問(幼稚な事ですが)があるのは 東西ベルリンとりわけ西ベルリンの人々はその狭い中で生活の全てが出来たのでしょうか?地下鉄で西ドイツ圏内に移動していたそうですが およそどれ位の距離だったのか今でも分からないままです.日本も 連合国とりわけアメリカとソ連に占領されなかったのは 不幸中の幸いですね。続きも楽しみにしています。オリンピックの開催国の中国 天安門事件アレだけセンセーショナルに全世界に報道され 民衆化が支持されたのに見事当時の政府に押さえ込まれましたね。
Commented by schale21 at 2008-02-22 08:38
児玉先生、ありがとうございます。
そうだったんですか。私もよく訪れた町で、中世の市壁が印象的ですね。あ、それからここの赤ワインも有名で、ただみたいな値段ですがフランスまで輸出されています(フランス銘柄で売られているとも。笑)素晴らしい味です。

書きたい思い出はたくさんあるのですが、客観的な検証が難しく躊躇してしまいます。ほんとの評価には数百年かかるのかもしれませんね。
Commented by schale21 at 2008-02-22 08:57
GEMさん、ご訪問ありがとうございます。
ソ連(ゴルバチョフ)が事実上黙認して、国境が開いたときにはほんとに驚いたものです。他の指導者であったならやはり考えられなかったと思います。ドイツ国民はそのことを実感としてよく知っています。

ベルリンは大きな街で、西だけでも大阪市ぐらいはあったんじゃないでしょうか。調べてみないとわかりませんが。
もちろん西ドイツから物資は入っていましたが、大抵のことは市内でまかなっていたと思います。
個人的には壁のあった時代の方が好きでしたね。まさにどこの国にも属さない現代の自由都市と言う感じで。街中、老いも若きも反戦、リベラルな空気が漂っていました。
なぜなら、反戦は単なる思想ではなく、あの状況の中では生きるための唯一の現実的選択だったからです。

Commented by schale21 at 2008-02-22 08:57
日本が北海道も含め分割されなかったのは、ほんとに大きな幸運でしたね。オーストリアにも言えることですが。
天安門事件の死傷者は報道されている数の10分の1程度だったようです。あの状況でデモが拡大していれば、中国は分解、分裂、内戦の危機にさらされていたことでしょう。
問題は多角的に考える必要がありますが、本質を見るのはほんとうに難しく、最適な方法を見つけるのはさらに難しいことですね。
日本の将来にも不安を覚えます。

Commented by GEM at 2008-02-23 00:10 x
こんばんは
ありがとうございました。これからも楽しみに訪問させていただきます。
家内の友達が ドュッセルドルフに住んでいて それこそ京セラに勤めているんです、(ヤシコン頼みたい。笑)独身で退職後もドイツに留まるようです。


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