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カテゴリ:Wind of Change ( 2 )

Wind of Change 第二回 


時代を変えた誤報

毎週月曜日の夜になると、父と母は幼い彼女を残して教会に出かけた。
少女は不安だった。それは家に一人取り残されたからではなく、両親が二度と帰ってこないかもしれないという不安だった。

ハンガリーの片田舎、ショプロン郊外の国境が事実上開かれてから、東西を隔てるベルリンの壁は、急速にその意味を失いつつあった。壁の抜け道は、遠く離れたハンガリー、オーストリア国境に開かれていたからである。 
東独に多い新教教会の主導で、集会は毎週月曜日に開かれた。それは月曜デモと呼ばれ、自然に人々の世論喚起の場として機能するようになった。 
だが未だ、ホーネッカーの権力も、東独共産党も、その秘密警察も健在だった。  
国民の数十人に一人は政府の傍聴の協力者と言われた。密告の網は縦横に張り巡らされ、学校、職場は言うに及ばず、家族内においてさえ、体制批判は危険を伴う自殺的行為だった。 
あるとき、同級生の一人は、一夜にして家族もろとも失踪した。以前から体制に批判的で、親戚を通じて西側への亡命を希望していた一家だった。移住は許可されたが、それは一晩の内に実行されなければならなかった。周囲へ影響を与えることは、完全に阻止されねばならなかったからである。

人種、性差を超えた人類の平等と、社会正義の実現を目指した理想に燃えた社会主義が、人間抑圧の道具と成り果てた歴史的事実は、永遠に掘り下げて考察し続けなければならない人類の課題である。
私は、そこに啓蒙主義以来の知性万能主義、神の万能性にとってかわろうとする、理想主義の危険性と傲慢さを深く感じる。
今日では、社会主義国家の崩壊は、西側の物質文明の勝利であるかのように喧伝されている。
だが、体制崩壊のエネルギーとなった人々の不満の根本は、豊かな物質文明への憧れではなく、何にも増して、その子供じみた人間抑圧の思考方法の押し付けにあった。それはまさに、目的と手段をはき違えた人間の大いなる誤謬であった。

月曜集会を機に、次第に人々の間には自由の空気が広がっていった。それはまさに新しい風であり、人間主義の風であった。
何故なら、その時代の空気こそ、社会主義的人間平等の理想と、自由主義の理想とが融合したものだったからである。
それは、今日の反ヒューマニズム的な野蛮な弱肉強食の自由主義、強者のための自由主義ではなく、人間の尊厳に根ざした自由主義であった。

すべての権力の基盤は人の心にある。それはいかなる財力も武力も超越している。
なぜなら人間は、愛や理想のために命を投げ出す存在だからである。そして、それを最も知悉しているのは他ならぬ権力者自身である。
故にすべての権力者は、人々の心の琴線を揺さぶる者をもっとも恐れる。
今日において、財力や世俗的権力が人生の目的、理想であるかのように喧伝されるのは、それを人々が理想として生きるところにのみ、権力の基盤が維持されるからに他ならない。この意味において、社会主義の理想は、この権力基盤に対する最も危険な挑戦であった。

新ベオグラード宣言を元に、各国の自主路線を強調したゴルバッチョフの演説は、ホーネッカーを見放したも同然だった。
人々はゴルビーの名を叫びながら、ホーネッカーの退陣を公然と口にするようになった。
ハンガリー国境(ショプロン)での、いわゆる汎ヨーロッパピクニック運動からわずか数ヶ月。89年10月にはホーネッカーは退陣を余儀なくされた。

そして崩壊は突然訪れた。
東独政府は、事実上崩壊した鉄のカーテンに対応するため、西側を含む旅行許可に関する規制緩和を可決した。
体制側の代表的なジャーナリストとして知られていたギュンター シャボスキーは、その法案を発表する担当官であった。
しかし、法案可決もその手続きも、すべてが予期せぬ出来事の中、混乱とともにあまりに性急に進められたものだった。
報道担当官であるシャボスキー自身、その内容についての詳細な知識は持ち合わせていなかった。
画期的な法案の発表につめかけた報道陣は問いかけた。”発行はいつからですか?
私の知る限り直ちにです。”
実際には、発行は翌日からで、それも政府発行の特別ビザを所持した者のみに対する許可であったが、情報は一人歩きし、国境はただちに自由に行き来できるとの衝撃的な噂が瞬時に広がった。
人々は分断の象徴であるベルリンの壁の前に自然に集まった。国境は閉鎖されたままだったが、国境警察は事態を何も知らされていなかった。報道を聞いた市民は西側からも集まり始めた。通過を拒否すれば暴動に発展する恐れがある。
こいうして国境の壁は自然に開かれ、人々の歓喜の往来がはじまった。
翌朝にはハンマーを持つもの、重機を持ち込む者まで現れ、1961年に突如として建設された分断の壁は、あまりに唐突にその役割を終えたのである。

かつては絶対にこえることのできない、自動小銃とコンクリートの壁。猫一匹こえることのできないとさえ言われた分断の壁。
しかしその終焉はあまりにあっけなかった。それはすべての圧政と権力の崩壊に通じる法則だった。
人々の心が変わるとき、すべてが変わる。不可能と思われる運命の克服も可能となるに違いない。

schale


ライプチッヒ出身のシャイラさん。当時は12歳。
ボスニア出身のご主人とともに現在はスイス国籍を取得。
ドイツ国籍は保持したまま。二重国籍は時代の趨勢となりつつある。
撮影シャーレ。Canon 1Ds. EF200mmF1.8                        
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by schale21 | 2008-03-13 10:52 | Wind of Change | Comments(12)

Wind of Change

第一回 ショプロン

”僕は聞いた。モスクワのゴーリキ公園に立って。
それは、世界が変わりゆく風のささやきだった”
       Scorpions


1989年夏、私は連日テレビのニュースに釘付けになった。それは私だけでなく、全ヨーロッパ中の人達も同じだったことだろう。

オーストリアの首都ウィーンから、ハンガリーの古都、ショプロンまでは50kmあまり、後のスロバキア共和国の首都、ブラチスラバ(ドイツ名プレスブルグ)まではわずか60km。
このオーストリア、ハンガリーの国境と、ハンガリーの首都、ブタペストの中間あたりに、ハンガリーの海とも呼ばれる巨大な湖、バラトン湖がある。
バラトン湖は、ステップ湖特有の浅い水深による温かい水温と、風光明媚な周囲の景観とあいまって、東欧屈指の夏のリゾート地として知られていた。

当時の東欧諸国の人々にとって、世界は、私達が今日知る世界の数分の一の広さしかなった。それは、一部の外交官や政治家、スポーツや芸術分野での著名人を除いて、一般の庶民が共産圏諸国の外に出る事は生涯叶わぬ夢だったからである。
鉄のカーテンは、文字通り越える事の出来ない、有刺鉄線と銃弾の壁だったのである。

だが、時代は変わろうとしていた。
農民出身の一人の共産党指導者、ミハエル ゴルバチョフの登場によって、残忍なスターリン主義の修正が計られ、”人間の顔をした社会主義”が新たな指標として掲げられていたからである。
私はこの、経済的、社会的必要に迫られていたとはいえ、外からの圧力のためではなく、権力内部からの平和的手段によって成し遂げられた変革、自らの絶対的権力の一部を自発的に放棄するという行為は、いくら賞賛しても足りない人類史的な意義を持っていると考えている。
それは古代インドの伝説の帝王、アショカ大王の先例以来の歴史的快挙であった。
それは、凍てつくシベリアの大地に吹きすさぶ冷酷な寒風に替わって、生命を育む、早春のそよ風にに似ていた。
そしてその早春の風が溶かしたのは、何にも増して、凍てついた人々の心の壁だったのである。

すべての変革は心の変革からはじまる。
故に、人の心の変革を成し遂げるものこそ、真の変革者であり、時代の創造者である。
それはイエスにおいても仏陀においても、また、孔子においてもマホメットにおいても同じだった。彼らは、真に人類の教師(カール ヤスパース)だったのである。

この夏、いつものようにバラトン湖畔は東欧、とりわけ東欧の優等国、東ドイツの人々でにぎわっていた。だが、その人々の間に思いもかけない噂が広まった。
もしかしたら、ソ連の介入なく、オーストリア国境を越えられるかもしれない。
瞬く間に人々はショプロン近郊のオーストリア国境に集った。ハンガリー側の国境はだが、今だ、閉ざされたままだった。
辛く、暗い記憶が蘇った。
それは、重戦車と機関銃の騒音がけたたましく響く、ハンガリー動乱、プラハの春にともなうソ連軍の軍事介入の思い出であった。
閉ざされた国境に集い、不安な日々を送る人々の姿は、ウィーンから世界中に放送された。
クレムリンの動向を伺いながら、決定を躊躇するハンガリー政府。
国境で送る一日一日は、まるで一年のように長く感じられた。
だが、ついに歴史的な決定は下された。
かつての鉄の国境は扉を開けて、人々は長く塞き止められた奔流のように堰を越えた。
ニュースを聞いた人々は、東ドイツ全土からこの国境に集結した。
その、小さな名もなき国境の扉は、人間の新たな時代の幕開けを開く扉だった。


ドイツの世界的ロックバンド、Scorpionsの曲、Wind of Changeはこちらでご覧頂くことができます。

http://www.youtube.com/watch?v=taVW8Kv2HcQ&feature=related



この東ドイツ休暇客のオーストリア越境が、のちのベルリンの壁撤去、ドイツ統一、ソ連崩壊につながる東欧改革の第一歩でしたが、著名な平和学者、児玉教授のご希望もあり、不定期になりますが一連の変動を数回に渡って取り上げたいと思います。
ただし、記事はすべて主観的な一種の思い出としてのもので、客観的、学的術なものではなく、立場や時代によって大きく異なる点があることをご了承ください。


写真、文 schale
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by schale21 | 2008-02-13 09:28 | Wind of Change | Comments(8)