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カテゴリ:運命との闘争( 5 )

運命との闘争

第5回  エゴの超克 写真家ラリー ウイリアムス

”贈与しうることは、その人の最も不滅の所有である”
                                 芳賀檀 『アテネの悲歌』より

1955年。
700年に渡って全中央ヨーロッパを支配した、ハプスブルグ帝政が終焉を告げて今だ三十数年。かつてヨーロッパの首都と言われた帝都ウィーンは、二度目の大戦による辛酸をなめ尽くしていた。
かつての大帝国は十分の一の国力しかない小国として、再出発しようとしていた。
ベルリンと同じく、米英仏露の4戦勝国による分轄統治を終えての独立は、期待と不安に満ちたものだった。
同じ年のイタリアアルプスの街、コルティナダンペッチオで行われた冬期オリンピックでは、チロル州出身のトニー ザイラーがアルペン三冠王となって、独立に華を添えていた。
彼の英雄的な勇姿は、敗戦に沈む国民にとって言葉にならない感動を与えたことだろう。
このオリンピックで、同じく敗戦国である日本の猪谷千春は銀メダルを獲得、これが今日に至るまで、史上唯一の日本人が獲得したアルペン競技でのメダルである。
この頃のウィーンの姿は、映画『第三の男』の舞台となり、世界中に知られるものとなった。

ラリー ウィリアムスが、オーストリア人の父とアメリカ黒人女性との間に産まれたのは、そんな時期のことである。
だが幼いラリーは父を知る事もなく、母親一人に育てられた。
優しい母は、居酒屋やバーで働きながら教育費を工面した。
社会党政権の街とはいえ、古い階級社会の名残の強い社会である。貧しい家庭に育つラリーが将来苦労しないためには教育しかない。
福祉も教育も発達した国ではあったが、金持ちや貴族の末裔の子弟の多くは公営の学校に通うことはなく、私立のエリート校に学ぶ機会に恵まれた。ウィーンのエリート校では授業は全てフランス語で
行われた。母はどんな苦労をしてでもラリーをこの学校で学ばせたかった。

彼は幼い頃から画才に恵まれていた。学校では知的な刺激も多い反面、そこで植え付けられるのは強烈なエリート意識でもあった。特別な階級に属さない彼にとって、その意識の裏付けは、自らの才能、知性でしかなかった。
いつしか成長した彼は写真家を夢見るようになった。

二十歳の時、母が急逝した。
唯一の身寄りであり、心の支えであった母。どんな時でも彼に希望を与え、明るい笑顔を絶やさなかった母。
人は心の痛みを乗り越えて人間となる。乗り越えた傷が大きい程、豊かな生をおくる可能性が広がる。人生を堪能しきる権利を得る事ができる。
そして自己の限界、エゴの限界を破る事が可能となる。

天涯孤独になった彼を勇気づけたのは、母の同僚達であった。
貧しいバーで働く同僚達が、お金を集めて彼のためにニコンFを贈ったのだ。それは庶民の手の届かない夢のような高価な宝物に等しかった。そして写真家として身を立てようという彼への出来る限りの激励だった。

写真家となるなら、世界の造形芸術、ファッションの中心であるパリに学ぼう。思い立てば行動は早かった。もとよりフランス語は母国語に等しい。
パリで彼の才能が開花し、認められるには時間はかからなかった。世界的写真家、ヘルムート ニュートンのアシスタントとして、この上ない環境で自らの才能を磨く事ができた。
数年後母国に帰国することには、早くもにスター写真家としての道を歩みだしていた。
Hニュートンから学んだ最大のこと。それは『普通』であることだったという。
ニュートンはその世界的名声など歯牙にもかけないかのように、気取りもなく普通の人間として振る舞った。そしてただ淡々と、自分の仕事を貫徹することだけに集中していたという。クライエントやマスコミの評価も批判も、全く意に介さなかった。

母国で気鋭の写真家として出発した彼に、すぐに大きな出会いがあった。
あるファッションショーの撮影に彼も招かれていた。一通りプログラムが過ぎ、おおとりが終わって幕引きかと思われた。
ところが、終わったと思った次の瞬間、ウェディングドレスに包まれたモデル達が舞台に現れた。
それこそがショーのクライマックスだったのだ。
ラリーの隣の写真家は既にフィルムを使い切ってしまい、彼の撮影したものを後で見せてくれと頼んだ。
彼の名は、オーストラリア出身の高名な写真家、パウル ハリスであった。
ラリーの撮ったものを見たパウルは、すぐにラリーの才能を見抜いた。芸術家ラリーが最も影響を受けた出会い、それがパウルとの出会いだった。
パウルもまた、ニュートンと同じく、名声や成功にはなんの関心も示さなかった。
多くの写真家、芸術家が、また駆け出しのラリーもまた、当たり前の社会的成功を求めて日々努力し、格闘していた。パウルはそんな行動を見下ろし笑うかのように超然としていた。
自分達があくせく怯えながら求めているものはなんだろう。ラリーはそんな疑問を押さえることが出来なかった。

パウルはある時、自らのエピソードを語った。
すでに写真家として成功していたパウルは、いつものように依頼されたものを撮っていた。
だがわき上がる疑問を押さえることは出来なかった。
これが自分が求めていたものか? 成功、名声、金、、こんなもののために自分は努力してきたのか。
写真とはいったいなんだ? なんのために自分は撮っているのか。
くだらない! どうしようもなくくだらない!
そう感じた彼は、手にする機材を全て海に投げ捨てたという。まるで虚飾の世界そのものを投げ捨てるかのように。
飄々と、淡々と自らの欲するものを撮り続けるパウルの姿は、ラリーの脳天を打った。

商業写真家として若くして成功を収め、充分な収入を手にしたラリーの前途は洋々と思われた。
スタジオ、機材に投資し、仕事も順調、内面まで自然に美しく描き出すポートレーに、多くの俳優、モデルが撮影を依頼した。
若く美貌と魅力に溢れ、また、どことなくエキゾチックな風貌を持つ彼に魅了される女性は後を絶たなかった。
会話は知的でありながら、野性味に溢れ、誰もが彼を好いて嫌う者は誰もいなかった。

だが、失意は突然訪れた。
彼の才能、能力を疑うものはいなかったが、突如として仕事が途絶えた。
流行という、ファション業界の宿命なのか。ニュートンやパウルなど、影響を受けた芸術家の妥協なき生き方が、おもねることを嫌う性格を作り上げたためなのか。
仕事の途絶えた彼にとって、スタジオへ投資した金額は莫大なものだった。借金が返せなければ、最悪、投獄の危険さえあった。この不安との戦いは、その後数十年続くものとなる。
投獄の不安、経済闘争、芸術家としての誇りとジレンマ。そして故郷でのエリート校の同僚達に見せなければならない虚栄も、彼の焦燥をいっそう不幸なものにした。

この頃、業界や、かつての校友達とは違う交遊もまた持つようになった。
それはもっと『普通』の人たちとの交遊であった。彼らはエリートでもなく、知的な仕事についているわけでも、芸術家でもなかった。だが、不思議なことに、その無名の普通の人たちこそ、彼の本質を最も厳しく見抜いた人たちだった。
彼らは言った。君は確かに多くの才能に恵まれている。そして多くの人に愛され、憧れの存在ですらある。だが、君は偽善者であり、君が求める成功など、浮き草のような虚栄に過ぎない。
友人の叱咤はあまりにも厳しく、残酷であすらあった。誇りを傷つけられた怒りも、失望もあった。
だが、その言葉は真実を突いていた。はじめて心に突き刺さる言葉だった。そして、自らの心から逃れることは誰もできない。
写真に関心のないその友人達は、ただ彼の人間性以外には興味はなかったのだ。
彼らは、例えラリーがどれほどの世界的な写真家となったとしても、露ほどの関心も示さなかっただろう。
これまで成功を求め、華やかではあっても狭く、虚飾に満ちた世界に生きて来た彼にとって、それは未知の分野での新たな挑戦に等しかった。それはいわば人間性を磨く戦いであった。 
国連に勤める妻と知り合ったのも、ちょうどそのころであった。借金のあるような男、芸術家気質で苦労するのは目に見えていると、反対する者も多かったが、夫の借金は自分の借金だと言い切った。
彼女もまた、ラリーの成功不成功ではなく、人間性の可能性に賭けていたのだ。

仕事柄、ジャーナリストとの付き合いも多く、語学が達者である彼は、次第に政治や平和の問題に関心を深めていった。
国連、とりわけ国際原子力委員会やOPECなど、もっともきな臭い組織が本拠を持ち、東西冷戦の狭間であるウィーンは、世界のスパイ天国でもあった。平和な市民生活をよそに、レストラン、高級ホテル、あらゆるところで情報合戦、盗聴合戦が繰り広げられていた。
広い交遊と、社交的な人柄を持つ彼のもとには、様々な人が集まったが、しだいに階層も職種も多様なものとなっていった。
そうして集るものは、単なる情報だけでなく、生きた生身の人間の感触であった。
彼が見て来た世界、贅沢で、虚飾に満ちた苦労を知らないエリートの世界、一流芸術家とそれを取り巻く人々、そのビジネスの世界、名もなく欲もない、無名であることをむしろ享受しているかのような友人達、そして貧しかった母とその同僚達。
研ぎ澄まされたその人間に対する感性の前に横たわるのは、日々繰り広げられる冷酷な国際政治の現実であった。
この世界は何かが狂っている。しかしそれを変えるのは確かに可能なはずだ。なぜなら狂っているのは、彼の知る一人一人の人間達でなく、その機構、その組織、そして人々が信じる常識の多くに他ならないからだ。

写真家ラリーは言う。
”自分は最高のアマチュア写真家でありたい”
それは写真家である前に、最高の人間でありたい、そして、それこそ写真家として最も本質的なことだという宣言である。
何も特別なことはいらない。ただ喜び悲しむ一人間として、何より他者の不幸に共に苦しむ勇気を持つ者として、巨大な不幸を産み出す不正義に、言葉と行動を起さざるを得ない者として生きる事、それだけが重要であると。

撮影ラリー、ウィーンの森に輝く月光、地元の俳優達
Photo, Copylight Larry Williams
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ラリー氏  彼の自宅にて
Photo Schale
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by schale21 | 2007-11-30 09:53 | 運命との闘争 | Comments(2)

運命との闘争

第4回  ドリス ヒック
              平和への意志

”愛する者は愛される者より常に偉大である”
   ライナー マリア リルケ

深夜のウクライナの古都、レンベルグ。
今だ残る家々の明かりは、世界何処の場所も変わらぬ家族の暖かいぬくもりを伝えていた。
中央ヨーロッパの要衝に位置するこの街は、ナポレオン戦争の時代から、戦略上の重要な起点として、幾度も戦渦にまみえてきた。

ナチスに併合されたオーストリア空軍の一軍人である彼は、戦闘爆撃機の乗員としてこの都市を上空から眺めていた。
その彼もまた、家族を思い、祖国を思う父であり、夫であり、息子達の一人であった。

目標にさしかかった。
しかしその目標は、重厚で重々しい軍事工場ではなく、幾多の団欒を伝える家々の窓であった。
彼の脳裏には浮かぶのは、子を思う母の眼差し、父の笑顔、愛し合う恋人達、安らかな眠りに沈むいたいけない子供達、それは彼の祖国の同胞と彼自身となんら変わりのない人間のありのままの姿であった。
今彼の下に眠るのは、彼と同じ父、彼と同じ夫、彼と同じ息子、そして母、妻、子供達である。

命令は下る。投下のレバーに手がかかる。
脳裏に一瞬にして浮かぶ、炎熱の地獄図、家を破壊し肉を引き裂く炸裂。泣き叫ぶ子供達。。
なんという残虐、なんという悲しみ、この蛮行を実行するには、彼の精神はあまりに正常であり、健康であった。
レバーを引く事はついにできなかった。爆弾を投下出来ずに帰路についた彼を待っていたのは、数ヶ月に渡る獄中での独房生活であった。

机上で平和を語る者は多い。
しかし、平和とは、この当たり前すぎるほど当たり前な、人間の精神以外どこにもありえない。すなわち戦争とは、人間が当たり前ではなくなることを指している。
戦争を肯定するとは、人間が連続殺人犯であることを肯定することに等しい。
しかし、歴史の真実は恐らく、人間が人間であると同時に、残虐な野獣、血に飢えた猟奇殺人者にもほかならないことを教えている。


女優ドリス ヒックは1966年、ウィーンに産まれた。
父とは産まれてすぐに別れた。若い母は仕事を厭う夫の姿に耐えられなかったという。
幼いドリスと歳若き母は、母の両親の元ですごすこととなる。
母方の一家はオーストリア社会党の闘士として知られていた。
ドリスの祖父は、ハプスブルグ帝政崩壊後の革命的な内戦の際も、最前線で戦った古参の党員である。
父のいない彼女は、必然、この祖父を精神的な父として育った。
この祖父こそが、先の空軍兵士である。

16才になった彼女は、近隣の化学工場の実験所で職業訓練を受ける事となった。
安全で確実な職場であるはずであった。しかし襲いよる精神的空虚感、自分の本質が別のところにあるという、いたたまれない焦燥感。
それは自己の中に深く眠っている、本来の自己を自覚し表現することこそが、自分の天分であると何かが教えているかのようであった。

堅実な職場を放棄して、彼女が目指したのは厳しい俳優の道であった。
国立の俳優養成学校を終えたあと、すぐにウィーンが世界に誇る伝統のブルグ劇場、ペイマン監督から連絡があった。すでに彼女の才能に注目していたのだ。
しかし、ドイツ語圏最高の格式を誇るこの劇場になんのコネもなく、貴族の家柄でもない彼女が入るには、今だ訓練は不十分であり時期尚早であった。

マスコミでもその才能と美貌から、将来を宿望される新人として幾度も取り上げられた。 
しかし、帝政時代から続く隠然とした階級社会であるこの国で、つてもない無名の新人が成功を収めるのは至難のことである。

思えば、革命戦士であり、ナチスの軍人でありながら、自らの心に従って命令に背いた彼女の祖父がそうであったように、彼女の挑戦は、保守的な体制と権威に対する挑戦であったのかもしれない。

舞台よりもテレビ、映画など、カメラの前での演技は得に冴えた。
彼女がレギュラー出演したテレビドラマシリーズは、空前の大ヒットとなった。
しかし、どこかしら妖艶な魅力漂う彼女のもとには、濡れ場やヌードの場面が多く、本来の才能を活かしきっているとは感じられなかった。何より、芸術家として以外に、単に商業的に自らを切り売りする事は耐えられないことであった。
どのような社会でも、媚を売れない者が生き残るのは難しい。なんの後ろ盾もなければなおさらのことだ。


人の知性には、様々な側面、要素があるという。数学的、論理的知性、スポーツで発揮される知性、芸術に関する知性、社会的知性、そして感性等々。
現代社会では、あまり論理的、数学的能力の側面のみが評価されすぎているといえるだろう。
いわば彼女は感情の天才であるといえるのかもしれない。それほど自らと人の感情に敏感であった。
人の善悪、そしてその人が本物かどうかを瞬時に嗅ぎ分けた。彼女に嘘をつける人はいなかった。
それは俳優として、並外れた天賦の才であると同時に、人生には破滅をもたらしかねない才能でもある。
彼女は少女の時代から語っていた。”憧れの女優はマリリン モンロー。しかし彼女の不幸は嫌だ。私は同時に幸せにもなってみせる。それが彼女がなし得なかったことだ”
モンローの孤独と、絶頂の中の不幸を知り尽くしているかのような言葉であった。

彼女もモンローと同じく、多くの男性を魅了する魅力溢れ、そして限りなく孤独であった。
多くの激しい恋愛はいずれも不幸に終わった。誰人も彼女の孤独を理解出来なかった。

彼女を理解する唯一の男性との愛も実ることはなかった。そしてそれは大きな痛手であった。
母国では才能と可能性を讃えるものはあっても、媚を売らない彼女に充分な報酬と仕事を与える者はなかった。
そして、すべてが八方塞がりに思えた。
もう狭いこの国では道はない。傷つくのはもうごめんだ。もっと広い世界で自分を試したい。

憧れのニューヨーク。モンローが俳優として演技の基礎を築いたアクタースタジオ。
知り合いのコーチであるS女氏から誘いがあったのはそんな時期のことである。すでに27才であった。
黒人のS女氏はトム クルーズやNキッドマンの専属コーチとしても名の通った名コーチとして知られていた。そしてドリスの才能を最も高く評価していたのも彼女であった。
狭く、そして高価なマンハッタンでの生活がはじまった。
仕事の鬼と言われるSコーチの元での訓練は、彼女が納得するまで止む事はなく、しばしば深夜、明け方まで及んだ。
グリーンカードの取得、厳しい経済状況、全てが現実の分厚い壁との闘争だった。
同時期にS ツバイクなど多くの文学作品に触れ、自身の精神的な訓練、向上にも励んだ。
また政治や人間の歴史、戦争と平和の問題に心を寄せ始めたのもこの頃のことだった。
まるで困難と不幸が、人の心を高め広げたかのようだった
アクタースタジオでの公演は成功を収め、DホフマンやRデニーロなど尊敬する名優達からの評価も得た。
しかし、ここでも彼女が最も必要とするものは得る事は出来なかった。
それは充分な報酬と、そして何より内面の孤独の克服である。

ニューヨークでの厳しい鍛錬は、俳優とて大きな向上をもたらした。母国からもテレビ、舞台などの誘いが入り、いずれもヒット作となり、大きな評価も得た。
しかし、それでも彼女の心は満たされなかった。
化学工場のラボで働く少女時代から、彼女の心を苛む何か。その何かに答えは得られてはいないのだ。

いったい何が足りないのか。自分が求めている真実と幸福はいったいどこにあるのだろう。
それは自身だけの成功、社会での名声なのだろうか。
そしてそれを得たとして、果たして本当に満足、幸せはあるのだろうか。

ーーーーー

トルストイは全ての名声、地位を捨てて、一老人として簡素な駅舎で生涯を終えたという。
有名なトルストイの家出である。
80才を越えた彼は、貴族の出自、皇帝でさえも手を出せないとまで言われた名声、そして強靭な肉体と健康。
何も足りない物はないはずであった。だがその彼にして尚、人生とは何か、その意義はどこにあるのかとの問いに、最後まで答えを見いだす事は出来なかった。
突然、家族と全てを捨てて放浪の旅に出た彼は、衰弱の末、無名の放浪の人として死んでいく。

ただ一人の成功を得る事はある意味たやすい。
だが、真の幸福を得る事は、全世界を変革するに等しい難事業でもある。
彼女が、無名にして偉大な祖父から受け継いだ血とは、自身の幸福は、他人の幸福、社会の変革と切っては切り離せないという、他者に対する感受性である。それは切実で切羽詰まった感覚でもあった。
そして、恐らく、自身の深い内面の孤独を克服する道もそこにしかない。

マンハッタンで間近に見た 11.September(世界貿易センターテロ)。
それはあまりに悲惨な体験であった。
これを機に、以前から関心を寄せていた政治的な問題にますます傾倒するようになった。国際政治とアメリカの世界戦略は遠い話題ではなくなった。
それは常に日常の、深夜のタクシーの中で密かにかわされる会話なのだ。
大統領選挙の行方も、市井の庶民は誰もが最初から知っていたという。
いかに物知りげな政治学者が、いかに複雑そうに何かを語ろうとも、それが世の中の庶民の現実なのだ。
それ以前から、イスラエル出身の友人宅からの国際電話は常に盗聴されていた。そんな環境は、世界と自身との関わりを否応にも自覚させるものだった。

いかなる権力も人の心を変えることは出来ない。
それ故、真の権力者とは、人の心を揺さぶる者のことである。
彼女の若き日からの願いは、舞台で、映像で、人の心を揺さぶる俳優になりたいということだった。
見る人の胸に突き刺さるような演技、それが彼女が願ってきたものだった。
まるでそれこそが、唯一平和をもたらす道、世界を変革する道だと心の奥底で知っていたかのように。


彼女の運命との闘争は今日も休まず続いている。
自らコーチとしても、イタリア、オーストリア、ドイツを舞台に、その実力で世界的と言われる俳優を育成することが願いでもある。

人間として成熟した彼女は知っている。内面の孤独と不幸の克服は、全世界を変革するに等しい難事業であると。
自身の不幸の克服は、同時に世界の悲惨に対する挑戦であると。
彼女の戦いは、一女性の個人の戦いではなく、世界を変革する戦いであると。
そしてその道は険しく、ほとんど勝利の可能性のない絶望の道であることも。しかし同時に選ぶべき、唯一の正しい道であることも。

撮影、文、schale
EOS1Ds, EF50mmf1.4, EF35mmf1.4, EF200mmf200


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by schale21 | 2007-08-15 07:47 | 運命との闘争 | Comments(8)

運命との闘争 第3回 早過ぎた天才 ジョルダノ ブルーノの英知と信念


”書物を焼くものは、いつの日か人間も焼くようになるだろう”
                 ハインリッヒ ハイネ


宇宙は偉大である。
それは人間自身のように無限で尊い。
人間と自然を抑圧し、貶める者は全て卑小な悪であり、嫉妬のなせる所行である。

ジョルダノ ブルーノ。
貴方の精神は、人類の青春そのものであり、あまりにも美しく、また早熟であった。
あまりにも勇気に溢れ、純潔であった。

直感を越えた直感、英知の中の英知。
300年の歳月を経てアインシュタインは、はじめて貴方やルネッサンスの天才達の正義を証明した。
かつて貴方を断罪した法王は跪き、私達に先駆けて逝った貴方の前に全人類が驚嘆の声を挙げる時が来たのだ。
絶対の権力さえ、一つの青春、一つの英知に勝ち得ないことを指し示したのだ。

宇宙と人間。
この一体の覚知こそ、未来への指標。
この指標に立ち返るとき、貴方の偉業はこれまでに増して、燦然と人類史に輝くことだろう。

schale


私にはいくつかの夢がある。
若き時から願ってきたその夢の一つは、いつの日か、ルネッサンスを代表するのイタリアの思想家、ジョルダノ ブルーノの殉教の生涯を戯曲に書く事であった。。。

西暦2000年。
21世紀の開幕を祝う年頭の祭典で、ロンドン、メルボルン、パリ、ベルリン、ニューヨーク、、、”先進国”の諸国では代わり映えのしない盛大で高価な花火が打ち上げられた。
それはこの文明の浅薄さと、刹那的に過ぎない価値観の象徴のように思われた。
未来の大陸アフリカではしかし、ブラックアフリカを代表する大詩人、ムチャーリ氏が、昇りゆく太陽に向かって未来の詩を詠詠と高らかに朗読する姿が、全世界に映し出された。
来るべき未来の人類の精神性が何処にあるか、如実に映し出されるような光景であった。

そして同じ年の初めに、もう一つの世界の精神史を刻む事件があった。
バチカンがガリレイ裁判、ブル−ノ裁判の不当性について公式に謝罪したのだ。
それは、西暦1600年のブルーノの火刑による壮絶な死から、ちょうど400年後のことであった。
だが、ブルーノの諸説の正当性と火刑そのものについては、いまだ見解は表明されていない。
今日にあっても、彼はローマにとってあまりにも危険な存在であることに変わりはない。

ルネッサンスの都フィレンツェ。
この地に立つ者は、誰でもイタリアルネッサンスの青春の息吹を胸に深く感ずることだろう。
フラ アンジェリコの天使の飛翔、ミケランジェロの不正を打つ怒りのダビデ、ラファエロの無限の抱擁。
ルネッサンスとはまさに人間が人間であることを、生命とは手段でなく、目的そのものであることを勝ち取るための戦いであった。

だがその戦いと成果は、造形芸術のみに限られたものではなかった。
この人間と教会と政治世界とが、最も堕落した時代に絢爛と花咲いた偉大な精神の革命は、何にもまして思想と精神の戦いであった。

画家や彫刻家はしかし、イエスや天使、旧約聖書の伝説の勇者の姿のなかに、人間の価値を描き出す事ができた。
誰にも知られず、教会の権威と惡、政治と人間の堕落に妥協なき戦いを挑む事ができた。
だが、一介の神学者、哲学者にとってその戦いは、即、死を意味するもの以外なにものでもなかった。

ブルーノが産まれたのは、ナポリ郊外の片田舎、1548年のことである。
後期ルネッサンスの芸術はすでに爛熟期を迎え、思想史の世界では、精神史上のルネッサンス運動ともいえる宗教改革の嵐がヨーロッパ全土を席巻していた。
科学の世界では、コペルニクス、ガリレイ等が、全ヨーロッパの精神世界を揺さぶる画期的な学説を唱え始めた時代であった。
ローマ教会の権威はその根本から揺らぎ、後の啓蒙思想、そしてフランス革命へと受け継がれるキリスト教の世俗化が、本格的にはじまった時代である。
その歴史は、また、ローマから奪った神の権威と力に、人間が取って替わろうという不遜な試みの始まりともいえる時代であったといえるだろう。
それ故、動揺する神の姿をどのようなものとして描くかは、後の歴史を決定づけるものであったといえるかもしれない。

ブルーノの思想は、端的に、イエスは人間であり、最も優れた人間の中の人間、模範の人ということであった。
またこの宇宙は、無始無終の、空間的には無限、時間的には永遠の存在であり、人間とその住む惑星である地球もまた、宇宙の中のありふれた存在、無数に存在する生命、文明の内の一つに過ぎないというものであった。
彼にとって時間と空間もまた、他のあらゆる存在と同じく相対的なものであり、無数の空間、無数の時間が存在した。
そして、輝く星達は、太陽と同じく自ら光を放つ恒星であり、太陽もまたその一つに過ぎないというものである。
なぜなら、神は無限であり、無限の存在である神が、有限の宇宙を創るはずがないからであるという。

コペルニクスの思想をいち早く支持したブルーノであったが、太陽ですら宇宙の中心ではなく、宇宙には中心はどこにもないと同時に何処でも中心であるとの思想は、コペルニクスをも遥かに越えて、相対性理論以後の現代に通ずる思想であった。
また生命を持つ惑星が、宇宙に無数に存在するという思想は、外の宇宙だけではなく、自らの”内面の宇宙”を達観した者だけが持ち得る思想であったといえるかもしれない。
それは人類の思想史上、ヘラクレイトスやエンペドクレスのようなソクラテス以前の古代ギリシャの哲人達、古代インドのウパニシャッドの思想家達、そしてそれを継いだ仏陀とその後継者の思想を想起させるもので、西洋思想史の中では全く特異なものであった。

しかし時代は宗教改革の最中。教会は異端の撲滅に全精力を注いでいた時代である。
ドミニク会の修道僧であった彼は、若くして当然のごとく、最も危険な故国イタリアを去らざるを得なかった。
パリ、ジュネーブ、ロンドン、ヴィッテンブルグ、フランクフルト、チューリヒ、プラハ
、、、ヨーロッパ全土に渡る彼の放浪と学究の旅がはじまる。
だが、彼の精神を理解するには、時代はあまりにも早過ぎ、そして人類の精神の暗黒の闇はあまりにも深かった。
すでにその才気と奇才な思想から、名の知られた知識人ではあったが 、いずれの地でも、伝統ある大学の教鞭に立つ夢ははほとんど叶わなかった。
新教の地、旧教の地、いずれからも受け入れられることはなく、むしろその卓越した思想と人格は、恐れられ排斥された。
彼の書籍を印刷する印刷業者は、迫害を恐れて、決して出版元が表に出ないように隠したという。
だがしかし、その反面、常識と権威に囚われない民衆と青年学徒には限りなく愛された。
そして、その心を揺さぶる言説こそ、権威にしがみつく以外生きるすべを持たぬ者が、最も恐れて止まぬものであった。

諸国を放浪すること16年。
その間、強い望郷の念に悩まされたという。
彼は、学術的な書物をはじめてラテン語ではなく、自らの母国語で書いた学者とも言われている。
その彼にも遂に故国イタリアの地を踏む時が来た。
だが名門バトバァ大学では、念願の故国での教職の機会は間近であったが、その職はガリレイに奪われる結果となる。
そして、ある有力な貴族の招聘でベニスへ。
しかしこれは、彼を異端審問にかけるための罠であったともいう。 

ローマの官憲によって、囚われの身となって獄中で生を送る事7年有余。
その間続いた詰問、拷問の数々。
だがしかし、自説を撤回すれば罪は免れるとの誘いを断固として最後まで拒否し続けた。
火刑に処される彼が最後に語った言葉は、”本当に恐怖に怯えているのは、何が真実か知っていながら不当な判決を下す君たちの方だ”
という恐るべき勇者の雄叫びであった。
当然のごとく彼の全ての書物は禁書となり、それは1965年の第二バチカン公会議まで続くことになる。

彼が何故にこのような思想を持ち得たのか、その英雄的な勇気と確信はどこから来るものなのか。
私は思う。それはダ ビンチやミケランジェロなど、多くのルネッサンスの天才達が知っていた事なのだ。
そしてそれは、決して新しいものではなく、古代の人類の知恵でもあった。そして未来の私達の知恵でもあることだろう。
だが、時代を突破した者の生は、あまりに大きな悲劇であった。
21世紀が、彼の精神と勇気の前に跪き、讃える時代となるならば、私達の未来もまた、開かれ、希望に満ちたものになるに違いない。


文、撮影 schale
Canon EOS 1Ds, 1Dkm2




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by schale21 | 2007-05-04 07:21 | 運命との闘争 | Comments(10)

運命との闘争 

第二回 人生の闘将   ヘルマン マイヤーの挑戦

『登れば登る程、人間の限界はなおいよいよ遥かであった』
芳賀檀


トニー ザイラー、フランツ クランマー、カール シュランツ、私が会った超一流のスキーヤーの目はみな鋭く美しく透明であった。
それは獲物を狙う猛禽のようである。
急斜面とスピードに打ち勝つ精神力のためであろうか。あるいは自身の恐怖に打ち勝つ闘争心のためであろうか。
しかし、マイヤーほどの妥協なき、恐るべき目を私は知らない。
それは人生と自らの運命に闘争を挑む者の目である。

オーストリア、ザルツブルク州の郊外、フラッハウ、ポンガウなどからなる広大なスキー場は、アネマリモーザーなど、歴代の数々の名スキーヤーを産み出して来た地であ
った。
またスキーを国技とするスキー大国オーストリアの中でもとりわけスピードレースの盛んな地であり、現在のレース界を支えるアトミックスキーの本拠地でもある。

若きマイヤーは喘息持ちの、痩せた、むしろ虚弱な少年であった。
スキー学校の経営に携わる父の影響のみならず、この国のとりわけこの地では、世界的な競技選手になって母国にメダルをもたらす事は、多くの少年が憧れる、特別な人生の成功を意味していることである。

マイヤーの試練はすでに少年時代にはじまった。
母国の誇る、スキー選手養成学校。地元のこのスキーエリート校に入学はしたものの、体格、体力不足、才能不足、これが後に歴代最高のスキーレーサーとも言われる彼に対する評価であった。今日では信じられない評価である。
加えてスキーヤーにとって命であるひざの故障。
しかも喘息には高地でのスポーツは厳禁と言われる。

国内で優秀な成績を収めることは、即世界的選手であることを意味するような環境で、この学校から退学となることはむしろ当然であった。
理由は ”才能不足、将来性なし”!

当時の彼の、スポーツとしてのスキーに関する才能については私の評価し得えるところではない。
彼にはしかし、凡人には決して持ち得ない並外れた才能が一つあった。
それは敗北を敗北として受け入れない、並外れた闘争心であった。

いかなる現実の敗北も、優れた専門家の評価も、彼の闘争心を覚ますには足りなかった。まるでそんなことには無関心であるかのように、自身の夢を追い求めて止まなかった。
それはいつの日か、母国に、そして自身と自身を育ててくれた両親のために、オリンピックの金メダルをもたらす事であったという。

この国のスキーレベルはあまりに高く、その層はあまりに厚い。
例え日本や他国ではその例すらほとんどないワールドカップでの優勝経験や入賞経験が何度もあっても、オリンピックや世界選手権の国内枠に入る事すら出来ない選手もまれではない。
そのために国籍すら変える者がいる程である。
マイヤーはその後もそんな地元のアマチュアレーサー、ホビーレーサーとして競技を続けた。

人生はしかし、彼の闘争心を試すかのように、またも大きな試練を与えた。
一家の家計を支える父が、自宅の改装の途中、屋根から滑落し、大怪我をおってしまう。
夏は壁職人、冬は地元のスキー教師として家計を支えざるを得なくなった彼は、チロル州、ザンクトクリストフのスキー教師養成学校でスキー教師として本格的訓練を受けることとなった。
このオーストリアが世界に誇る基礎スキーの総本山での訓練、そして壁職人としての過酷な労働が、後に誰も想像し得ないような成功の基礎をもたらすことになったのである。
ヨーロッパでのセメント袋の重さは50kg(日本は25kg)。このセメント袋を何度も何度も担ぎ上げる辛い労働。一般スキーヤーを相手のスキー講習、レースに打ち込むこことの出来ない思い通りにならない環境。
しかし、この環境こそが、常識破りの”史上最高のスキーヤー”を造り上げたのだ。

この労働を通し、マイヤーの肉体は、かつて虚弱、華奢と言われたののが嘘のような強靭なものとなった。
プロレスラーのような筋肉の塊。しかしそれは、ジムのみで鍛えられたものではなく、土方仕事を通して、実戦的に鍛えられた肉体であった。
また彼の基礎スキー技術は、後のナショナルチームでも最高と言われるものとなった。深雪を滑らせれば並ぶ者はないとも言われる。ナショナルチームで最も”スキーが上手い”と言われるその技術は、オフピステスキー世界選手権の上位を独占するアールベルグのスキー学校で学んだものであった。
その技術のため、視界が悪く、ピステが荒れて条件が悪ければ悪い程、さらに並外れて強いというマイヤーの伝説を産み出すこととなった。

そんな中、アマチュアレースを続ける彼を後押ししたのは、彼を少年時代から知る地元の恩師であった。
彼に最後のチャンスをと、ザルツブルク州のチーム責任者であった恩師の裁量でヨーロッパカップに。
そこでいきなりのシーズン優勝。同じ年に、ワールドカップに前走者として出場。
前走者にも関わらず、”全力疾走”した彼のタイムはなんと上位入賞者と同じ。そのデビューからして、あまりに型破りであった。
翌年、伝統のドイツ、ガルミッシュパルテンキルヘェンのスーパーGで初優勝。
時すでに25才!
スイスの伝説的名選手、ツーブリッゲンの引退年齢が27才であったことを思えば、いかに遅咲きであったかがわかる。

彼のフォームもまたあまりに型破り。大回転の名手、その美しいフォームで知られるグリューニゲンをして唖然とせしめるものであった。
しかし2位に2秒以上の差をつけて勝ち続ける選手は(1位と2位の差が、2位と30位ぐらいある)、皇帝クランマー以来のことである。
この予期せぬ突然のデビューに、オーストリアマスコミはオリンピックを前にして騒然となった。


長野オリンピック。
それは彼が少年時代から夢見た舞台であった。
そして初日の花形競技、ダウンヒル。
当日になり雪の問題で、練習時の旗門とは微妙にコースが変えられた。
私は今でもこの変更に疑問をもっている。当代の滑降トップ選手のほとんどがコースアウト、下位の成績であったことがそのことを物語っている。
オリンピックとは、古代ギリシャ以来、世界最高の者を選び出す舞台であるはずなのに。
そこは限界まで戦いきる男の中の男(女性であっても)、最高の人間を選び出す舞台であったはずなのに

彼はこの変更となった旗門を通過するにはあまりに速過ぎた。
その選んだコースはあまりにも直線的であった。
初回の計測ですでにそれまでの1位に1秒以上の差。
完走すれば想像を絶するタイムでの優勝であったはずだ。。。

この時コースアウトした彼が空中を飛行した距離は60mとも80mとも言われる。
ジャンプ競技に参加すれば良かったのにとも揶揄されたその飛行は、3重の安全フェンスをも飛び越えた。
常人であれば、死か半身不随を意味するような時速百数十kmでの転倒であった。
しかし、彼の精神、肉体はあまりに強靭であった。
まるで平凡なスキー教師のように、何事もなかったかのように自らスキーを担ぎ上げ、深い深雪をかき分け立ち上がった。
彼が空中で考えた事、それは恐いではなく、 ”ああ、これで子供の頃からの夢であった金メダルを逃した” ということだという。
そのわずか二日後の大回転、後のスーパーGで二つの金メダルを手にすることは誰にも想像出来ない事であった。
この転倒によって超人はしかし、3つの金メダルを手にする以上の伝説を造り上げた。

その後のキャリアは、まさに空前絶後、想像を絶するレベルのものである。
デビュー後わずか4シーズン、数々の記録を塗り替えるそのキャリアの絶頂の最中のことであった。
トレーニングの帰りの途中のオートバイ事故。
過失は相手方にあった。
世界的なスポーツ選手に重傷を負わせてしまった老年のそのドライバーを気遣い、相手のことはほとんど語っていない。

医師の診断は、普通なら片足切断。車椅子ではなく自分の足で歩けるようになればむしろ幸運。
度重なる手術をへて、スキー靴をはじめて履いたのは2年以上たってからのことであった。
しかし1時間で足は腫れ上がり、それ以上滑る事は出来なかった。

事故から3年。かつて神懸かり的な強さを誇ったスーパーG、舞台は地元ともいえる伝統のキッツビュール。
傷跡は今だ生々しく、片足のスキーブーツも特製であった。
その数ヶ月前、大回転の名門、スイスのアーデルボーデンで再びワールドカップの舞台に立ったことすら奇跡と言われた。
ライバルはやはり逆境を克服して、歴史に名を残すスターとなった同僚エバーハルター、アメリカの新星のスーパースター、ボーデ ミラー。
なみいるライバルを押しのけての彼の優勝は、自身ですら信じられないことであった。

鬼のような恐ろしい形相のマイヤー。その鬼の目にも涙が光った。
マスコミはマイヤーも涙するのか、やはり人間だったのかと書き立てた。
しかしそれは単に、スポーツ競技に優勝した喜びではなく、自身の運命に不可能の闘争を挑み、勝ち取った者の涙、人間の限界とその力を示した者の涙であった。
彼もまた、人間が運命の奴隷ではないことを、運命を支配するのは、神でも他者でもなく、人間の不屈の意志に他ならない事を指し示した。


限界に挑む者に対する憧憬。
それは人間独自のものである。
”私には、功利を越えて人間は人間の限界に挑む性向があるとしか説明できない” という微生物学者ルネ デュボスの洞察と直感こそ真実であるのかもしれない。

schale


撮影 schale
アーデルボーデン 大回転でのマイヤー
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ライバルたち
天才スキーヤー、ベンジャミン ライヒ
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アメリカのスーパースター、ボーデ ミラー
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レースの前に行われた航空ショーにて
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伝統のラウバーホルン、ダウンヒルのマイヤー
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by schale21 | 2007-04-20 07:17 | 運命との闘争 | Comments(15)

運命との闘争

”登れば登る程、人間の限界はなおいよいよ遥かであった”
                                                             芳賀檀


第一回  ベートーベンのロマンス

轟く雷鳴 天空を揺さぶる激怒の来光
貴方の正義の憤怒と不正への挑戦は 神々をも震撼させて止まない

この地上に 貴方以前に芸術はなく 貴方以後に音楽もない
”音楽こそ神々にもっと近いもの それ故音楽家こそ神々のもっとも近くにいる者”

神々の領域を地上にもたらそうとの企てに 人間を汚辱せずにはいられない嫉妬の運命の挑戦

酒乱の父 度重なる殴打
貧困と 最も愛する身内の裏切り
精神を理解せぬ 軽薄なビーダーマイヤーのウィーンの聴衆
そして神々の旋律をつなぎ止める奇跡の聴覚の喪失

ああ、なんと運命は過酷に残酷に貴方を妬めしことよ
なんという不正と無理解が 妖怪のごとく貴方を悩めしことよ

しかもなお 不可能を前にして一歩も引かない貴方の挑戦は
人間が ”それでもなお” 自らの運命を自らで決めゆくことを
古代の神々とは 偉大な人間に他ならぬ事を指し示してくれた
人間とは卑小な貧しい存在ではなく  奇跡そのものであることを
この芸術を越えた芸術に この天と地上を結ぶ限界への登攀に
私たちもまた 連なりゆく未来を教えてくれたのだ

schale

                    
”愛される者より愛する者は常に偉大である”
このかなわぬ恋に悩む、ある若い詩人にリルケが送った言葉ほど偉大なものはありません。
偉大な人生、偉大な芸術とは、与えて与えて遂には自らからが滅び去るまで与えて止まぬものなのです。

フランスの批評家アランは、あのトルストイの戦争と平和を50回読んだといいます。
ちょうど太陽の前では、あらゆる存在が燃え尽きるように、炎に近づきすぎる虫達が焼き焦がれるように、偉大な芸術の前にただ身を任せ、卑小な私たちはその前で押しつぶされ、なすすべもなく圧倒され、叩き付けられるほかないのです。

ベートーベンの難聴については現在でも諸説があり、定説はありません。
幼年時代の父親による殴打説、梅毒説、ワインによる鉛毒説。
ともかく三十代の芸術家としてもっとも充実した時代に、それはあまりにも過酷な運命として襲いかかってきました。

生涯に70回以上引っ越しをしたと言われるベートーベンの住居の大半は、ウィーンとその周辺にあります。
その現存するはいずれも二部屋ほどの質素極まりない小部屋。
冬はまだ市壁の残るウィーン旧市街で、夏は主にハイリゲンシュタットやバーデンなど、郊外のウィーンの森の農家の一室でひっそりと暮らしていました。
生前から高名な音楽家であったため収入は十分あったはずですが、甥を巡る訴訟や、その他の不明な人間関係のため浪費されていたようです。
身長は160センチ少々、当時としても小柄だったようです。

このような激情的で生涯孤独なベートーベンも、幾度かの恋愛を経験しています。
そして天才の恋が常にそうであるように、それは生命を賭けた激しく熱情的なものでした。
しかしこの卓越した天才にして、徹底した理想主義、自由主義者、そして激情家のベートーベンの恋が、常に”不可能の恋”であったのは当然なのかもしれません。

この失恋と難聴の重なるもっとも辛い時期にまた、最も美しい後世に残る作品の数々を残していることに驚きを禁じ得ません。
”ロマンス ヘ長調”はそんな時期に書かれたものの一つですが、悲しい思いや悲劇的なものを感じさせるものは何もなく、どこまでもおだやかで美しく、伸びやかで屈託のないものです。私はそこに天才のあまりにも大きな偉大さと、想像を絶する生命力を感じずにはいられません。
彼にとって恋とは奪うものではなく、どこまでも与えるものであったからです。愛する事にこそ意義があるのであって、愛される事にあるのではない。
この激しくも、大きな大河のような豊かな生命に、深い深い感銘を受けるのです。

schale


ベートーベン ロマンス ヘ長調 
http://www.geocities.jp/h_ikem/romanzfv.htm  
Ikemyさんのご好意により提供していただきました

こちらでは20世紀最高のバイオリニスト、ユーディ メニューイン氏のストラディバリによる演奏。著作権の問題がありそうなので、削除するかもしれません。
http://www.youtube.com/watch?v=21fPNI9sPBc

”運命への挑戦”は不定期に、逆境に立ち向かって人生の意義と、人間の力を示してくれた偉業を取り上げたいと思っています。
予定はヘルマン マイヤー、私の友人達、またベートーベンは数回取り上げる予定です。

写真 schale  カメラ Canon 1Dsにて

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by schale21 | 2007-03-08 09:56 | 運命との闘争 | Comments(10)