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平和への構想

平和学について
”平和学とは健康と病気について研究する医学に等しい”趣意
       ヨハン ガルトゥング

他の動物と同じように、先史時代より人類は生き延びるためにあらゆる努力を重ねて来たが、その最大のものは戦争に関するものである。武器を発明し、政治的手段を発達させ、時代に応じ、あらゆる戦略、謀略を重ねて来た。ハンニバルやアレキサンダー、ナポレオンを待つまでもなく、歴史上のもっとも讃えられた優れた天才達の多くも軍略家達だった。
精神的指導者であるバラモンを頂点においた古代インドを例外として、社会の指導的立場にあったのも常に軍人達であった。
おしなべて、人類の才能と資産のほとんどは、戦争とその準備のために注がれて来たといって過言ではない。
だが、戦争を回避するための手段とその研究、そして平和そのものについての考察は、仏陀や孔子、イエスやマホメット、カントなど幾人かの天才思想家を挙げうるばかりである。
そればかりか、イエスやマホメットの思想はかえって新たな紛争の口実として利用された。貧者の救済と、社会的正義の実現を夢見たマルクスの思想もその運命は同じであった。
だが人類は今、”生き延びるために”、戦争のための手段ではなく、平和のための手段とその研究を必要としている。
その実現のためには、おそらく、人類が今日、軍事研究に注ぐ費用と才能の一万分の一で足りるものかもしれない。

平和学は20世紀半ば以降の、ごく最近産まれた新しい学問である。
ひるがえって、人間がいかに長く軍事研究にその精力を注いで来たかを思えば、たったそれだけで、人類という種がいかに病んだ種であるか伺い知るに十分である。さらに言えば、平和学という名称そのものが、平和とは研究に値する”特殊な状態”であることを婉曲に語っているともいえる。本来は”戦争学”であるはずである。
この事実に目を向けるだけで、人間にとって戦争こそ日常の状態であり、平和とは戦争と戦争の間の”停戦状態”に過ぎないことが見てとれる。実際、古来の多くの思想家達も、この停戦状態の実現を前提として思考を進めていた。これでは、人類とは、殺戮の欲求に取り憑かれた精神異常者であるとの烙印こそふさわしいものと言える。
平和学とは、この病の根源の解明と治療法に関するものであるといってよい。
それは精神的な病であり、今日、私達を滅亡に追いやろうとしている最も危険な病である。
そしておそらく、人類史上、最も多くの命を奪った病である。
だが、患者は、多くの精神異常者がそうであるように、自らの病に気づいてはいない。
動物学の分野でも、人間の殺戮に対する欲求のありかたとその規模は異常である。にも関わらず、私達は、日々、自らを美化し続けることに夢中になっている。

この治療法の研究のためには、人間のあらゆる知識を動員せねばならない。それは人間そのものに関する学問だからだ。
大学で研究される現在の学問分化の基礎は19世紀に作られたものだ。
すなわち、今だ我々は、19世紀的な学問体系の系図の中にいるといえる。人類にとって最も重要な基礎体系である平和学のためには、この古びた学問体系はなんの役にも立たない。
社会学、政治学、経済学、史学、地政学、考古学、生物学、動物学、文化人類学、生理学、心理学、宗教学は平和研究の基礎学として動員されねばならない。実際、これらの研究は、重要な軍事研究の資となっている。ここで平和研究と軍事研究は、その目的こそ異にすれ、ほとんど表裏一体の姉妹学であることが見て取れる。
おそらく、現在でもっとも平和研究のための施設と研究者、実績をそなえているのは米軍であろう。実際、近年の多くの紛争への軍事介入に、もっとも反対した専門機関も米軍である(バルカン、中東)。
それは近年の紛争が、ただ政治的手段としてのものだけで、軍事的な意味をもたないものであることを物語っている。米軍の研究レベルが、生き延びるためのもっとも効率的、現実的な手段が紛争回避であることを知る段階に達し、既得権益の代理人である文人政治家よりも、紛争問題専門家である軍人政治家の方が平和的な解決を望むという皮肉な事態となっている。

自分のいう平和学とは、このような極めて包括的な研究を指している。またここで、戦争、紛争とは、何より心理的態度のことを指しており、いわば人生の生き方の問題といってよい。つまり、人間が世界と自分の人生向き合う向き合い方のことを言う。
この意味で、人間はその環境(地球)に対しても常に交戦的状態にある。
現在、大学や様々な研究機関では、平和学はおもに国際政治学の一部として扱われているが、国際関係論で扱う平和学は、医療でいえば処方箋にあたるものにすぎない。それはなぜ人間が暴力を好み、戦争と暴力を美化し、取り憑かれたように自己破壊にいたるまで止めようとしないのか、その病理の解明に役立つことはない。それは多分に心理学や宗教学の問題でもあり、また、他の動物との比較においては動物学や、また考古学、人類学上の問題である。しかし、政治学上の理論と実行が、現場の臨床的な対処にもっとも不可欠な要素であるのも論を待たない。
このような包括的な研究を行う研究者や機関は少なく、そのためには膨大な予算、総合的な研究を統括する指導者の存在が不可欠である。
問題を最も多角的に捉える一人はガルトュング博士である。博士はこの分野の創始者の一人であり、現在でも第一線の研究者でもある。

人類が暴力と平和の問題の考察通して、諸学の統一的な
Universalenzyklopädien(総合的知識体系)を手にすることが可能となるかもしれない。
だがそのためには、戦争とその温床である暴力と殺戮の賛美は許容されず、科学において価値の中立性は認め得られない、すなわち暴力は悪であり、平和は善であるというモラルが科学の中に持ち込まれる必要がある。
これは何も、画期的なことであるわけでも中世への回帰でもない。現在でも科学は、一神教の神に奉仕している。その発想の基準は一神教的思考に基づくものであり、それゆえ、価値(モラル)の中立を持ってその本質を隠している。
神に奉仕しているのは、ビッグバン理論だけではないのだ。

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by schale21 | 2007-12-27 12:05 | 平和への構想 | Comments(6)