「ほっ」と。キャンペーン

砂漠の中のオアシス  モロッコの赤い大地

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サハラの高峰、大アトラス山脈から流れ出るドラア川は、水量に恵まれたときには、遥か1100km先の大西洋にまで注いでいくという。
しかし、大抵はサハラの広大な砂の中にその姿を消してゆく。
上流ではしかし、まるで宝石を連ねた高貴な首飾りのように、限りなく美しい数々のオアシスを潤しながら、人や動物、そして美しい鳥やヤシの森を養っている。


オアシスは平和だ。
それは砂漠の中の楽園であり、人も動物も、あらゆる生物も、わずかな、しかし同時に限りなく豊かでもある、自然からの贈与を享受している。
そこでは全てが、わきまえることを知っており、誰も限られたリソースを一人占有しようというものなどいない。
それは、全体の死を意味するからだ。

ここには、我々の野蛮な”文明”が、かつて失って久しいもの、それなしでは生きてはいけない、生命の水ともいえる何かが息づいている。

そうだ、それは私たちが子供の時代に誰もが共有して
いたものでもあるに違いない。
私たちは、そういった、私たちが自然に身につけている善性から、まるでそれが人生の成功にとって邪魔であり、悪でさえあるかのように引き剥がされ、うち捨てることを強要されている。
それが私たちが文明と呼ぶものであり、進歩、幸福という名の地獄の正体である。

ああ、このオアシスの子供達の目のなんと純粋であることか!
なんという単純さと高貴さに満たされていることよ!
そして同時に、限りない悲しみと憂愁を秘めている。
それは、やがて彼らの世界も、踏みにじられ、消えていく運命であることを知っているかのように。

もはや砂漠は、乾いた灼熱の遺棄すべき地獄ではない。この文明から隠れ去り、私たち自信を取り戻すことのことのできる、生育と憩いの場となった。
オアシスに満ちているのは、自然の水だけでなく、心の水でもあるのだ。

schale



人口3200万人、年間GDP一人3000ドル、識字率50%、失業率22%、
これが現在のモロッコの統計水準である。
しかし、気候に恵まれた沿岸地帯を中心に、実に豊かな国である。果物や野菜に恵まれ、総じて温和な人たちで満ちている。
古くからの文化国家であるせいか、建築、工芸など極めて優れた職人的技術をいたる所から感じることができる。
長らくフランスの影響を受けたこの国では、アラビア語のほか、フランス語も国語となっている。たいていの者がバイリンガーである。また、地理的歴史的な関係から、スペイン語を話すものも多い。また一般的な比較的単純な人たちでさえ、米国とドルの没落を随分以前から知悉していた。
メディアの流す虚構を、”先進国”の人たちよりもはるかに敏感に見抜いているのだ。
先進国が示す多くの統計、指標は、幸福の度合いと文化の水準を計るには、実に虚しいものである。

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# by schale21 | 2011-10-13 10:50 | 随想 | Comments(4)

旅立ちのとき

長い長い旅路の果てに
休息、逡巡、困難、砂塵の如き無尽の障害

新たな生への脱皮、瞬間の死
細胞の再生

さあ、また歩き出すのだ
新しい肉体と、精神を得て、生の開拓へ
汝の炎で 苦悩の薪を燃やし尽くのだ
行く手を照らす 光となるのだ

schale



私たちは今、非常に大きな節目を迎えようとしています。
いや、実はずっと以前からもう、そういう大きな節目、変革の中に私達は身を置いていたのかもしれません。
しかし、まるで駄々をこねる小さい子供のように、私たちはその変革を厭い、無視し、すっかり変わり果てて行こうとする世界の中に身を置きながら、それに合わせた自己自身の変革を拒否し続けて来たのかもしれません。
しかし、時代は今、もう待ったなしに、その変革を私たちに迫っています。

私たちは何処から来て、何処へ行こうとしているのか、幸福とは? 生の意義とは?  いや、そもそも、すべては ”何故”?

ハイデッガーは、真に偉大な思想家の思想は、生涯、一つの大いなる問いを巡って回るものであるとの趣旨の言葉を述べたといいます。

それ自身宇宙である、自己自身を思考する宇宙の中の存在である私たちもまた、この偉大な問いかけを、また再び開始する時が来たのです。
それはまた、大いなる勇気を必要とする、苦難の旅路への出発の時でもあります。


schale


長らくほっぱらかしており、コメントいただいた方、訪れていただいた方、お詫び申し上げます。

写真はスイス、グラウビュンデン州国立公園、ニーダーホルンの野生動物、堆肥に咲くエジプトの蓮
機材1Ds初代、EF85F1.2II, EF24-70F2.8他
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# by schale21 | 2010-12-03 06:13 | 詩と文学 | Comments(2)

”はじめて出会う平和学”を読んで

”自由はただ、決意と勇気によってのみ守られる。真の勇気は希望のないところにも不動である”
                   芳賀檀
”平和学とは平和に関する学問ではなく、平和のため、平和を創造する学問である”
                   児玉克哉

チベットの争乱のニュースが世界を揺るがしている。
中国政府がチベットの独立をゆるせば、火の手は台湾、新彊ウイグル 自治区等にも飛び火し、ひいては目覚ましい経済発展を遂げる沿岸部と、内陸農村部との争いにまで発展しかねない。中国の歴史の半分は、中央政府の強権が緩んだ時代の分列国家状態であったことを思う必要がある。
思えば、この国の共産主義革命とは、中国人の家族主義に基づく、独特の個人主義的メンタリティー克服の試みでもあり、一種の精神革命の試みでもあったのかもしれない。革命時代の強力な精神的指導者を失った今、時代はまた大きな試練をこの大国に課している。
しかし争乱のニュースは中国からだけではない。
ガザを中心とするハマスとイスラエルの闘争、イランを廻る政治的駆け引き、イラク、アフガニスタンから発せられる悲惨なニュースの数々、今だ冷めやらぬバルカンの闘争、独立後の混乱を制しきれず、混迷の道を歩むアフリカ諸国、コロンビアを廻る南米の不穏なニュース。
これらの多くに共通する事は、裏に民族問題、国境問題を孕んでおり、その根は20世紀の争乱の中に撒かれたものであると言うことである。
よく、第二次大戦は第一次大戦の延長であり、その根はさらに普仏戦争、ナポレオン戦争、さらには30年戦争まで遡るとまで言われる。戦争は次の戦争を呼び、その循環は止まる事を知らない。
人類最悪の世紀である20世紀に撒かれ残された課題は、そのまま現代の人類的課題として、私達の生存を脅かしている。
それは、もう一つの人間の戦争である環境問題においても顕著である。

この難局を乗り切るには、私達自身を変える他はない。私達は病的なナルシズムに満ちた自己賛美を止めて、その過去を反省し、その目標と理想を洗い直し、立て直す必要があるのだ。
私達が寄って立つ科学においても、その転換が迫られている。科学は科学のためにあり、モラルの面では中立であるなどというのは、古びた19世紀的な幻想にすぎない。
すべての科学、そして芸術などの文化は、平和という目的に奉仕すべきである。
平和学こそ、そべての学問の基礎であり、未来の総合科学である。
なぜに人間は戦争を行い、それを正当化し、また、自然に対しても闘争を挑むのか。また、それはどのような方法によって克服が可能なのか。
それこそ、人類が追求すべき最も緊急の課題であり、その解明を通して、全く新しい人間存在の地平を開くことが可能となるであろう。

日本では平和学という学問の名前すらそれほど知られていない。
それは、大学において講座すら満足に行われていないからである。独立した学科として講義が行われているのは、今だ一部の大学にすぎないという。
だが平和学は、大学のアカデミーでのみ研究される学問ではなく、広く社会の中に行われるべき学問でもある。
その意味で平和学は、広く万人に開かれた学問であり、市井の庶民がそれに触れてこそ、はじめて本来の意義を持つ学問である。また、それは万人の中に研究されるものであり、真理を知った碩学が、無知な市民に教えを垂れるというような古びた権威とも無縁である。真理は社会の中に、歴史の中に、自然の中に、共々に研究され、確立されねばならない。

難解な問題を難解に語る事は容易ではない。だが、もっとも多岐的で難解な問題を平易に語ることは芸術に等しい。
この短い書物の中には、珠玉の思想が籠められている。

著者はいう。
”平和学とは希望を創りだす学問である”
この言葉ととともに、原爆の炸裂の惨劇を逃れたロウソク一本の灯さえない地下壕で、新たな生命を産み出す母と、最後の命を絞ってそれを介護する産婆の逸話が語られている。
絶望と希望は共に人間の所作であり、それは極限のドラマでもある。
医師であり、高名な作家であったハンス カロッサは、やはり命を賭して子を産んだ母の挿話を書いている。
難産のため苦しむ若い母に、医師は告げる。
子をあきらめればあなたは助かる。だが、産めば、子は助かってもあなたが命を失う。
母は、なんのためらいもなく子の命を救う事を願い、息を引き取る。居合わせた医師や人々は、その厳粛な光景に息を呑み立ち尽くし、言葉もなかったという。これは作家の体験に基づいた実話である。
原始仏典にも同じ話がある。
旅を続ける娼婦である母は、幼い子とともに渡ろうとした大河の流れに呑み込まれてしまう。
子を離せば自分は助かる。だが、子を見捨てる事が出来なかった母は、共に大河に呑み込まれて沈んでしまう。
しかし、そのエゴを超越した生命の力により、死後、共に天上界に産まれたという。
いずれも、弱肉強食、強者生存という、現在の自然科学、経済学でうたわれていることとは対極の世界である。
思えば、もっとも子や家族、身内の生命を尊び、時にはそのために自信の命すら危険にさらす哺乳類が、地球という生命の進化の頂点である事実こそ、この現代思想の誠に手前勝手な解釈の誤謬を語っているのではないだろうか。

”幾万人が死んだというような抽象的な数字ではなく、私たちは被害者の個人の悲劇に注目しなければならない。それを忘れるなら、平和学は単なる軍事学になってしまう。人間の生命の尊さを出発点として積み上げられる理論こそ重要なのである”
これは偉人の言葉と思う。
平和学は涙の学問である。そして平和学は復讐の学問である。
その堪え難い悲劇性を体験し、なおかつ、真っ正面から向かい合う勇気のあるところに平和学は産まれる。
弱者、敗者への同苦なくして平和学はありえない。それは偽善の同情でもなく、センチメンタルで弱々しい感傷でもない。
それは悲劇のまっただ中に飛び込む勇気と、悲しみを背負ってなおかつ前に進む力を必要とする。
感性、想像力の枯渇こそ悲劇の根源である。なぜなら、一人の母、一人の妻、一人の夫に思いを致す時、いかなる抽象化の理論も力を失い、いなかる戦争も正当化することはできないからだ。
平和学の父とも呼ばれるガルトゥング博士の出発点も、父をナチスに殺害されたところにあるという。
そのため博士は、戦後も数十年にも渡って、ノルウェーからイタリア旅行の際も、ドイツを通らず避けて遠回りをしたという。戦争と暴力に対する闘争という、人類の不可能に挑む戦いは、ひとつの復讐の執念から始まったのだ。それはまさに人間自身の中に潜み、歴史を支配してきデーモン(魔王)との闘争である。

本書ではその他、環境問題、移民問題、女性差別問題、防衛問題など、もっとも難しいテーマを正面から取り上げている。
すべては未来を築くためである。
驚くべき事にこの書物は、増刷を重ねてある種のベストセラーともなっているという。
人々が本当はなにを欲しているかかいま見る思いである。
平和こそ人々が希求するものであり、暴力礼賛、財産と資源の一極集中による貧困と破壊など、誰も欲してはいないのだ。メディアこそそれに気づくべきである。平和と希望の創造はある意味、単純で容易いことでもある。

schale


”はじめて出会う平和学”は、平和学の入門書として、児玉克哉博士、佐藤安信教授、中西久枝教授の共著として有斐閣から出版されています。定価1900円。

写真、文、schale
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# by schale21 | 2008-03-17 10:19 | 平和への構想 | Comments(16)

Wind of Change 第二回 


時代を変えた誤報

毎週月曜日の夜になると、父と母は幼い彼女を残して教会に出かけた。
少女は不安だった。それは家に一人取り残されたからではなく、両親が二度と帰ってこないかもしれないという不安だった。

ハンガリーの片田舎、ショプロン郊外の国境が事実上開かれてから、東西を隔てるベルリンの壁は、急速にその意味を失いつつあった。壁の抜け道は、遠く離れたハンガリー、オーストリア国境に開かれていたからである。 
東独に多い新教教会の主導で、集会は毎週月曜日に開かれた。それは月曜デモと呼ばれ、自然に人々の世論喚起の場として機能するようになった。 
だが未だ、ホーネッカーの権力も、東独共産党も、その秘密警察も健在だった。  
国民の数十人に一人は政府の傍聴の協力者と言われた。密告の網は縦横に張り巡らされ、学校、職場は言うに及ばず、家族内においてさえ、体制批判は危険を伴う自殺的行為だった。 
あるとき、同級生の一人は、一夜にして家族もろとも失踪した。以前から体制に批判的で、親戚を通じて西側への亡命を希望していた一家だった。移住は許可されたが、それは一晩の内に実行されなければならなかった。周囲へ影響を与えることは、完全に阻止されねばならなかったからである。

人種、性差を超えた人類の平等と、社会正義の実現を目指した理想に燃えた社会主義が、人間抑圧の道具と成り果てた歴史的事実は、永遠に掘り下げて考察し続けなければならない人類の課題である。
私は、そこに啓蒙主義以来の知性万能主義、神の万能性にとってかわろうとする、理想主義の危険性と傲慢さを深く感じる。
今日では、社会主義国家の崩壊は、西側の物質文明の勝利であるかのように喧伝されている。
だが、体制崩壊のエネルギーとなった人々の不満の根本は、豊かな物質文明への憧れではなく、何にも増して、その子供じみた人間抑圧の思考方法の押し付けにあった。それはまさに、目的と手段をはき違えた人間の大いなる誤謬であった。

月曜集会を機に、次第に人々の間には自由の空気が広がっていった。それはまさに新しい風であり、人間主義の風であった。
何故なら、その時代の空気こそ、社会主義的人間平等の理想と、自由主義の理想とが融合したものだったからである。
それは、今日の反ヒューマニズム的な野蛮な弱肉強食の自由主義、強者のための自由主義ではなく、人間の尊厳に根ざした自由主義であった。

すべての権力の基盤は人の心にある。それはいかなる財力も武力も超越している。
なぜなら人間は、愛や理想のために命を投げ出す存在だからである。そして、それを最も知悉しているのは他ならぬ権力者自身である。
故にすべての権力者は、人々の心の琴線を揺さぶる者をもっとも恐れる。
今日において、財力や世俗的権力が人生の目的、理想であるかのように喧伝されるのは、それを人々が理想として生きるところにのみ、権力の基盤が維持されるからに他ならない。この意味において、社会主義の理想は、この権力基盤に対する最も危険な挑戦であった。

新ベオグラード宣言を元に、各国の自主路線を強調したゴルバッチョフの演説は、ホーネッカーを見放したも同然だった。
人々はゴルビーの名を叫びながら、ホーネッカーの退陣を公然と口にするようになった。
ハンガリー国境(ショプロン)での、いわゆる汎ヨーロッパピクニック運動からわずか数ヶ月。89年10月にはホーネッカーは退陣を余儀なくされた。

そして崩壊は突然訪れた。
東独政府は、事実上崩壊した鉄のカーテンに対応するため、西側を含む旅行許可に関する規制緩和を可決した。
体制側の代表的なジャーナリストとして知られていたギュンター シャボスキーは、その法案を発表する担当官であった。
しかし、法案可決もその手続きも、すべてが予期せぬ出来事の中、混乱とともにあまりに性急に進められたものだった。
報道担当官であるシャボスキー自身、その内容についての詳細な知識は持ち合わせていなかった。
画期的な法案の発表につめかけた報道陣は問いかけた。”発行はいつからですか?
私の知る限り直ちにです。”
実際には、発行は翌日からで、それも政府発行の特別ビザを所持した者のみに対する許可であったが、情報は一人歩きし、国境はただちに自由に行き来できるとの衝撃的な噂が瞬時に広がった。
人々は分断の象徴であるベルリンの壁の前に自然に集まった。国境は閉鎖されたままだったが、国境警察は事態を何も知らされていなかった。報道を聞いた市民は西側からも集まり始めた。通過を拒否すれば暴動に発展する恐れがある。
こいうして国境の壁は自然に開かれ、人々の歓喜の往来がはじまった。
翌朝にはハンマーを持つもの、重機を持ち込む者まで現れ、1961年に突如として建設された分断の壁は、あまりに唐突にその役割を終えたのである。

かつては絶対にこえることのできない、自動小銃とコンクリートの壁。猫一匹こえることのできないとさえ言われた分断の壁。
しかしその終焉はあまりにあっけなかった。それはすべての圧政と権力の崩壊に通じる法則だった。
人々の心が変わるとき、すべてが変わる。不可能と思われる運命の克服も可能となるに違いない。

schale


ライプチッヒ出身のシャイラさん。当時は12歳。
ボスニア出身のご主人とともに現在はスイス国籍を取得。
ドイツ国籍は保持したまま。二重国籍は時代の趨勢となりつつある。
撮影シャーレ。Canon 1Ds. EF200mmF1.8                        
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# by schale21 | 2008-03-13 10:52 | Wind of Change | Comments(12)

Wind of Change

第一回 ショプロン

”僕は聞いた。モスクワのゴーリキ公園に立って。
それは、世界が変わりゆく風のささやきだった”
       Scorpions


1989年夏、私は連日テレビのニュースに釘付けになった。それは私だけでなく、全ヨーロッパ中の人達も同じだったことだろう。

オーストリアの首都ウィーンから、ハンガリーの古都、ショプロンまでは50kmあまり、後のスロバキア共和国の首都、ブラチスラバ(ドイツ名プレスブルグ)まではわずか60km。
このオーストリア、ハンガリーの国境と、ハンガリーの首都、ブタペストの中間あたりに、ハンガリーの海とも呼ばれる巨大な湖、バラトン湖がある。
バラトン湖は、ステップ湖特有の浅い水深による温かい水温と、風光明媚な周囲の景観とあいまって、東欧屈指の夏のリゾート地として知られていた。

当時の東欧諸国の人々にとって、世界は、私達が今日知る世界の数分の一の広さしかなった。それは、一部の外交官や政治家、スポーツや芸術分野での著名人を除いて、一般の庶民が共産圏諸国の外に出る事は生涯叶わぬ夢だったからである。
鉄のカーテンは、文字通り越える事の出来ない、有刺鉄線と銃弾の壁だったのである。

だが、時代は変わろうとしていた。
農民出身の一人の共産党指導者、ミハエル ゴルバチョフの登場によって、残忍なスターリン主義の修正が計られ、”人間の顔をした社会主義”が新たな指標として掲げられていたからである。
私はこの、経済的、社会的必要に迫られていたとはいえ、外からの圧力のためではなく、権力内部からの平和的手段によって成し遂げられた変革、自らの絶対的権力の一部を自発的に放棄するという行為は、いくら賞賛しても足りない人類史的な意義を持っていると考えている。
それは古代インドの伝説の帝王、アショカ大王の先例以来の歴史的快挙であった。
それは、凍てつくシベリアの大地に吹きすさぶ冷酷な寒風に替わって、生命を育む、早春のそよ風にに似ていた。
そしてその早春の風が溶かしたのは、何にも増して、凍てついた人々の心の壁だったのである。

すべての変革は心の変革からはじまる。
故に、人の心の変革を成し遂げるものこそ、真の変革者であり、時代の創造者である。
それはイエスにおいても仏陀においても、また、孔子においてもマホメットにおいても同じだった。彼らは、真に人類の教師(カール ヤスパース)だったのである。

この夏、いつものようにバラトン湖畔は東欧、とりわけ東欧の優等国、東ドイツの人々でにぎわっていた。だが、その人々の間に思いもかけない噂が広まった。
もしかしたら、ソ連の介入なく、オーストリア国境を越えられるかもしれない。
瞬く間に人々はショプロン近郊のオーストリア国境に集った。ハンガリー側の国境はだが、今だ、閉ざされたままだった。
辛く、暗い記憶が蘇った。
それは、重戦車と機関銃の騒音がけたたましく響く、ハンガリー動乱、プラハの春にともなうソ連軍の軍事介入の思い出であった。
閉ざされた国境に集い、不安な日々を送る人々の姿は、ウィーンから世界中に放送された。
クレムリンの動向を伺いながら、決定を躊躇するハンガリー政府。
国境で送る一日一日は、まるで一年のように長く感じられた。
だが、ついに歴史的な決定は下された。
かつての鉄の国境は扉を開けて、人々は長く塞き止められた奔流のように堰を越えた。
ニュースを聞いた人々は、東ドイツ全土からこの国境に集結した。
その、小さな名もなき国境の扉は、人間の新たな時代の幕開けを開く扉だった。


ドイツの世界的ロックバンド、Scorpionsの曲、Wind of Changeはこちらでご覧頂くことができます。

http://www.youtube.com/watch?v=taVW8Kv2HcQ&feature=related



この東ドイツ休暇客のオーストリア越境が、のちのベルリンの壁撤去、ドイツ統一、ソ連崩壊につながる東欧改革の第一歩でしたが、著名な平和学者、児玉教授のご希望もあり、不定期になりますが一連の変動を数回に渡って取り上げたいと思います。
ただし、記事はすべて主観的な一種の思い出としてのもので、客観的、学的術なものではなく、立場や時代によって大きく異なる点があることをご了承ください。


写真、文 schale
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# by schale21 | 2008-02-13 09:28 | Wind of Change | Comments(8)

マウトハウゼンのウサギ狩り  Mühlviertler Hasenjagd


世界で悪いことが多いのは、悪いことばかりを報道するからだ。世の中には善や善人も大勢いる。本来はそういう行動を報道すべきだと語った人がいる。まったくその通りと思う。

オーストリア北部、リンツの郊外で、チェコ、バイエルン国境にほど近い場所にミュールフィアテルという所がある。ミュールフィアテルは、峻険なアルプスに囲まれた国土の中で、美しい丘陵地帯の続くオーストリアの穀倉地帯である。この地には、かつてのナチス強制収容所、マウトハウゼン収容所がある場所として知られている。
ポーランドのアウシュビッツや、バイエルン州のダッハウと同じように、収容所は現在でも歴史の証人ともいえる文化施設として保存されている。

オーストリアとナチスとの関係は複雑である。
ナチスに半ば強制的に併合されたオーストリアだが、被害者の側面と、加害者としての側面とが相互に絡み合っている。政治的併合は強制的ではあったが、故国に進駐するヒトラーを、国民擧げて迎え入れたのも歴史の事実である。1000年近くにわたって、革命も宗教改革もほとんど経験してこなかったこの国の国民は、ローマ教会、ハプスブルグ皇帝、ヒトラーと、圧倒的な権威、権勢を持つものには素直に従った。その意味では、我が日本の国民も同様である。

マウトハウゼンの収容所では、主に東部戦線で捕虜となったロシア人将校たちが収容されていた。
戦争末期の1945年、冬、この収容所で歴史的な大事件が起こった。
マイナス8度の厳冬の中、500人ものロシア人捕虜が収容所からの脱走を企てたのだ。
一部はすぐに捕獲、射殺されたが、300名あまりが付近の森などに逃亡した。
すぐに突撃隊、正規軍、ヒトラーユーゲント、また付近の住民などが駆り出され、逃亡者の捜索にあたることになった。出された命令は、一人も生きて返すなであった。生きた捕虜を連れ帰った者は激しく非難された。
二月の厳冬の中、粗末な囚人服しかなく、多くは靴もなく、食物もなく、森の中を逃走し生き延びることは不可能であった。ほとんどの者は発見され次第、その場で射殺された。また、凍死、餓死する者も多かった。組織的な捜索は3週間にわたって続けられ、捜索はうさぎ狩りと名付けられた。
だが、この残忍なうさぎ狩りを生き延びた者がわずかながら存在した。彼らは終戦の日まで命を長らえ、故国に帰郷することができたのだ。

うさぎ狩りに駆り出された村人たちにとって、ロシアの将校や青年たちは、なんの関係もない見知らぬ兵士、今は惨めで哀れな、武器も持たない痩せこけた囚人にすぎなかった。
ここで村人たちの行動は二つに分かれた。
一つは、ここぞとばかりに、人間狩りをうさぎ狩りと称して残忍な追跡を楽しむ者。
ここでは残虐さは権威づけられ、賞賛される。なにも善人ぶる必要はない。いくら非人間的な行動をしても、咎められるどころか栄誉とされるのだ。普段は堅実で真面目な村人たちは、非情な殺人者となった。容赦なく、厳冬の川や雪深い森の中を逃げ惑う囚人達を射殺した。
だが、そうでない者、たとえ命令でもそうは出来なかった者達もまた少なくなかった。
彼らは逃走者に食事を与え、衣類を与えた農民達であった。その幾人かは、自らの危険を顧みず、農家の納屋や屋根裏にかくまった。捜索がくるたびに、干やがる思いをしながらも、言葉も通じぬ敵国の捕虜をかくまった。その一家の若者は、昼間は自ら捜索隊の一員として駆り出された。うさぎ狩りに参加せねば、反逆者として投獄の危険があったばかりか、逃走者をかくまう家族にも嫌疑がかかったからである。

そんなある若者は、偶然橋の下で瀕死の捕虜を発見する。それは飢えと寒さで見るも無惨な姿であった。彼は発見したのが自分一人と確かめると、密かに食事と衣類を恵んでやろうとする。だが、すぐに村の隣人である同僚に発見されてしまう。
”お前何やってんだ”、普段から内気で優しい青年の性格を知っていた隣人は、彼をせき立て、だまって捕虜を連れ去る。
”だってお前かわいそうだと思わないのか、お前、人間の暖かみないのか”
”何いってんだ、こいつは捕虜なんだぜ、おい、いくぞ”

やむを得ず、ともに部署に連行するが、その先で何故生かして連れてきたのかと非難を受ける。命乞いをする捕虜を容赦なく射殺するナチス将校に耐えかねた若者は、この男がいったい何をしたと叫び、自ら数日間収監されてしまう。
青年の母と妹は、二人の捕虜の世話をしかくまっていた。やがて、各農家の内部まで捜索の手が及び始めたのを察し、自らのみならず、かくまう優しい一家をも危険にさらすことを案じた二人の捕虜は、自ら農家を後にすることを申し出る。だが、老いた母は言う。
私も人の母です。あなたのお母さんも、あなたが生きて帰ってくることを祈っていることでしょう。だからここにいなさい。

やがて春になり、ロシア軍はすでに国境をこえて、ウィーンに迫っていた。
こうして終戦の日まで、9人の捕虜が生き延びることが出来た。

これは名もない農家の庶民の英雄的な実話である。
この世で偉いのはいったい誰であろうか。人間の序列は何かが狂ってはいないだろうか。
そして、尊いとされることも、本当の勇気、優しさとはなんであるかということも。


注 ミュールフィアテルの逸話は1994年に、オーストリアのAndreas Gruber監督のもとに映画化され、多くの人に知られることとなった。映画”Hasenjagd” は、1995年、12万人の観客を集め、この年のオーストリア映画最大のヒットとなったが、ドイツ語圏以外では、ほとんど知られていない。



文 写真 schale
Camera Canon 1Ds
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# by schale21 | 2008-01-26 05:59 | 平和への構想 | Comments(6)

ノースウッド計画 Operation Northwood

”軍産複合体の経済的、政治的、精神的影響力は、全ての市、全ての州政府、全ての連邦政府機関に浸透している”
               アイゼンハワー


数年前のドイツでの調査で、9月11日の事件を報道されている通りの、イスラム過激派によるテロ事件と信じている人はむしろ少数派と言う結果だったと記憶している。すなわち過半数以上の人が、この事件には消極的、あるいは積極的に政府が関与していると感じており、また恐らくは、自国ドイツ政府も正確な情報を持っているが、公表されていない感じていたということである。そして現在ではこの数字はもっと高いかもしれない。おしなべて大陸西欧諸国民が事件に対して持っている印象もドイツと同様である。

一見してこの結果は、西ヨーロッパでの大手マスコミ報道に対する国民の慎重な態度とも受け取れるが、実際には、国民の大半は国益に添う限り、自国報道機関の発する情報には妄信的であることに変わりはないと言う側面もある。
この事は各国の利権と思惑が交錯し、欧州連合の中枢である独仏間でも利権の対立があった、バルカン紛争に関する報道、および国民の態度でも明らかであった。とりわけ、コソボ紛争におけるNATOの直接的、攻撃的軍事行動では、欧州の矛盾は噴出し、専門家、政治家の間で多くの議論を呼んだが、国民の大半は、自国の利権に基づいた報道に疑問を持つ者は少数であった。今日ではしかし、コソボでの経験から、NATO(アメリカ) から独立した指揮権を持つ、EU統合軍の設立が本格的に議論されている。
すなわち西ヨーロッパ国民の大手報道機関に対する不信は、むしろアメリカ政府と、それが発っする報道に対する不信と理解する事ができる。

ノースウッド計画は90年代後半に、アメリカの情報公開法(FOIA)によって知られる事となり、アメリカの著名なジャーナリスト、James Bamfordが発表したNSA(National Security Agency)に関するベストセラー、Body of Secrets(超極秘防諜機関、NSAの解剖学)においてもその詳細が紹介された。この書物は各国語に翻訳され、ヨーロッパの各書店でもベルトセラー本として書棚を飾った。
計画はすでに50年代に練られており、実行が検討されたというが、アイゼンハワー大統領が反対し実現しなかったともいう。その後、CIAが主導してカストロ政権の転覆を計った有名なピッグ湾事件の失敗を受けて、本格的なキューバ侵攻を企てるペンタゴンが、侵攻の口実とするために詳細に練り上げたものである。

計画では、フロリダを中心とする亡命キューバ人の殺害、ミグ戦闘機によるアメリカ民間航空機への攻撃、米軍艦の撃沈、米軍基地へのテロ攻撃、ワシントンなどでの民間人への銃撃等による無差別テロ攻撃、これらの事件をカストロの命令よるキューバ人テロリスト、及びキューバ軍によるものとするためのマスコミコントロールなどが取り上げられている。計画書の署名には、後にNATO欧州軍最高司令官として、コソボ空爆の指揮を執り、大統領候補(民主党)にもなったクレイク将軍の名もあると言う。

民主主義の根幹は、いうまでもなく民意のコントロールにある。その役目を担うのは教育とマスコミだが、内戦を克服した安定した民主主義国家では、攻撃性はしばしば外部に対して向けられる。この数百年間、もっとも多くの紛争を引き起こしたのは、イギリス、アメリカであることを忘れてはならない。またこの両国はプロテスタント国家でもある。現在の民主主義はプロテスタント的個人主義、営利主義に基づいている。
株の乱高下が世評を賑わしているが、このシステムを編み出したのも、自らは富を持たず、植民地経済で潤ったプロテスタント国家、オランダである。
すでにこの個人主義は破綻に瀕している。
私達はこの古い民主主義を克服して、全体(環境)と個がより調和した、新しい民主主義を必要としている気がしてならない。

文、写真 schale
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# by schale21 | 2008-01-25 05:36 | 平和への構想 | Comments(4)

褐色のギリシャ兵

 
芳賀檀の文学

私が研究室を訪れると、ご高齢だった先生はゆっくりソファから立ち上がられ、深々と頭を下げられた後、よくいらしていただきました。お茶はいかがですか、と言われ、決まって自ら紅茶を入れてくださった。それが二十歳そこそこの、一学生に過ぎない自分に対する、大碩学として内外に知られた学者の姿であった。私は、その深淵な文学的著作と相まって、何よりその人格に衝撃的な影響を受けた。
それは自分の人間観を根底から覆すほどのものだった。
(当時、私は文学部ですらなく、法学部で政治思想を学んでいた。勝手に先生を慕って講義や研究室に顔を出していたにすぎない)

ある日の午後、講義の合間に二人でニーチェについて語り合った際、会話に夢中になって時間を忘れ、講義の時間をとっくに過ぎてしまい、走って講義室に向かったものの、学生達はすでに帰った後だったこともあった。今となっては美しい青春の思い出である。
その後、ドイツのフライブルグ大学に招聘された先生に、当地にいた自分が行き違いでお会い出来なかったことが何より悔やましい。後のお手紙によると、私とビールを飲みかわし、朝まで語り合う事を楽しみにされていたそうである。博士の最晩年のことである。だが、常に青春の中に生きておられた先生であった。
学者の道を歩まなかった私は、未だ先生にお見せ出来るような仕事も成し遂げておらず、人格も未熟であることを恥ずかしく思う。自分がこの10年ほど、平和学(戦争学)に関心を寄せるようになったのも、せめて、万分の一でもその思想を継承したいという無意識の思いがあるのかもしれない。

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芳賀檀を理解出来る文学者は、あるいは日本にはいないかもしれない。なぜなら日本には哲学がない。すなわち真の知識人はいない。そして、それは文壇の世界ではなおさらである。
だが、確実なことは、その精神を理解出来る、無名の青年達は必ずいるということだ。

先生はよく語られていた。”川端が新潟の芸者をいかに妖艶に書いたとて、それが世界の青年に何を与えたか!” ”ノーベル賞などというものは、こちらから与えるものであって、もらうものではない”
日本の文学者では、白鳳(万葉)時代を別にすれば、芭蕉のみ世界文学として高く評価されていた。リルケに並ぶとも示唆されていた。また、近代文学では、父上(芳賀矢一)と交流の深かった鴎外先生と漱石先生を別にすれば、堀辰雄氏のみ、文学的にも人間的にも高く評価されていた。三島(由紀夫)氏とは交遊は深かったが、私自身はその文学についてはなんの評価も聞いた事はない。ただ、時折、彼と付き合っていたおかげで、右翼とよく間違えられ困ったと笑いながら語られていた。だが、晩年編集された詩集、アテネの悲歌では、死に際して三島に贈る詩を残されている。その文学的才能は認めておられたのは間違いない。

専門とされていたのはもちろんドイツ文学であるが、日本をはじめ、世界文学、哲学に造詣が深かった。
フランスの実存哲学者、ガブリエル マルセルと交遊も深く、フランス文学についてもよくお話を伺い、言葉も堪能で、ビクター ユゴーやポール ヴァレリー、スタンダールを特に高く評価されておられた。
とりわけ、ヴァレリーの貝殻の唄は、リルケに通じるものとして、しばしば言及されている。

師とも恩人とも慕われていたヘッセの作品の中では、若き時代のものをより高く評価されていたのが印象に残っている。
リルケについてはもちろん第一人者であり、世界で最初にドイノの悲歌を外国語に全訳されたことを大変誇られていたが、反面、この歳になっても、その深遠さはいまだに本当にはわからないと正直に語られていた。
また、キリスト教と西洋近代史には大変批判的で、晩年は自ら仏教徒ともなられたようだ。 
この点では、晩年に交遊を持たれていた池田大作氏の影響もあったようだ。内外に何かと批判の多い池田氏であるが、先生はそんなことは歯牙にもかけず、30歳以上年下の池田氏について、”池田先生は天才である。自分の交流は光栄この上ない。先生はアンドレ マルローやアーノルド トインビーとも対談されているが、マルローが訪日の際、朝日新聞が日本を代表する文化人として知られる、Kとの対談を企画したが、Kはくだらない話ばかりして、マルローはしまいにあくびをし始め、対談にもなにもならなかったという。日本と世界の頭脳にはそれほどの差がある。日本で20世紀を代表するような哲学者と対等に話が出来るのは池田先生だけである”と何度も自分に語って、この点についても衝撃を受けた記憶がある。

博士の著作は、文芸評論家として高名だった戦前のものと、晩年のものに大別される。
その間の多数の翻訳や、評論集はよく知られた通りである。
だが、若き日から、その文学的精神の規準はなにも変わっていない。晩年には、その美しい精神を、詩や戯曲にこの上なく見事に昇華され、描き出された。
最後の著作の一つである”死について”では、癌を宣告された自らの体験を通して、哲学史を再度見直され、さらにそれを一般の人々が誰でも触れられるようにするために努力された。
高潔な精神も、深淵な文学も芸術も、そして死というもっとも切実な実存の問題も、全てあたりまえの人間に奉仕するものであるということが、その哲学の要諦であったからだ。
”芸術のための芸術”という命題も、政治や経済に利用される事なく、人間のための芸術であり続けるという宣言にほかならない。ハイデッガーのもとで共に学んだサルトルの、”アフリカで飢えた子供が死んでゆく間に、芸術はなんのためにあるか”という有名な命題をしばしば引き合いに出されていた。
そこに浮かび上がるのは、人間から離れた青白い近代のインテリの姿ではなく、古代ギリシャの理想の姿、健康で誇り高い男子の姿である。
博士のドイツ時代のあだ名は”褐色のギリシャ兵”であったという。それはステファン ゲオルゲやベルトラムが名付けたものだったのかもしれない。だが、これほど先生の姿を伝えるにふさわしい言葉もない。
テニスやスキーも愛好され、留学時代には、現地の人々以上の腕前であったことをよく誇りにしておられた。

私は、ここに、失われて久しい、全人的な真の知識人の理想の姿を見る思いがする。
真の知識とは、人間と宇宙、幸福と平和への知識であって、それは絶対的な健康を伴う知識である。
今、人類が、心身ともに衰弱しきって、死滅の際にあるこのとときこそ、再び古代の理想の姿を思い起こすべきではないだろうか。


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# by schale21 | 2008-01-12 04:31 | 詩と文学 | Comments(2)