褐色のギリシャ兵 - 芳賀檀の精神

『いつになったら又御目にかかれるのでしょう?
私達は、世界の限界の深部に於いて再びめぐり合うであろうと師は云われました。
曾てヘラクレイトスや印度の詩人たちが言ったように。ーーー
私にとっては師とともにすごした日々こそ真の故郷です。
師は再び私をあの河の畔りで優しく待ちうけていて下さるでしょうか?
曾て私達が逍った河の畔りで。ーーーあの輝く大理石の円柱の傍らで』
                                             芳賀檀    友情の書より



 出会の奇跡

”全て人間と世界への信頼を失った私にとって、もはや生は無意味なものだった。
死を決意した私は、ケルンを流れるラインの河畔を彷徨った。
ラインの流れは早く深かった。
すると前方から、黒い服に身を包んだ、一人の背の高い男性が向かってくるのが見えた。
それは、普段からその講義を傾聴し、敬愛していたケルン大学のベルトラム教授であった。
私を見て、ただならぬ様子に気づいた博士は、どうかなさったのですかと優しく声をかけてくださった。
博士は私の話を聞いた後、その花に囲まれた美しい庭園のある自宅に招き、勇気づけてくれた。
博士の偉大な精神は、私の卑小な心を包容し、そして昇華させるかのようだった。
私はそれまでの狭い世界が崩れ落ち、全く新たな世界と生がはじまるのを感じた”

ーーーーー 

私の恩師、芳賀檀博士がケルン大学教授エルンスト ベルトラムの元に学んだのは、1930年代のことであった。ベルトラムはニーチェ研究の大家としてすでに高名であった。
その以前は黒い森の麓の大学町フライブルグで、ハイデッガー、現象学の提唱者、フッサールのもとで主に哲学を学んだ。同期の学生で最も有名なのがサルトルであった。
サルトルは後に、ハイデッガーの哲学を独自の解釈で文学化したが、ハイデッガー自信はサルトルの文学、哲学を自分のものと同じとは認めなかった。
しかし現代においては、文学と哲学は同じ根を持つ二本の木と語って、ともに人間存在の解明こそその使命であると表明している。この意味において、哲学的思索なき日本の文学は、近代的な世界文学の名に値しないと芳賀博士が考えたのも当然であったろう。
 
ハイデッガーの師であったフッサールはすでに退官していたが、彼のフライブルグの自宅で、外国からの研究者に現象学を紹介するため、少数の個人的なサロンがもたれていた。芳賀檀はその中の一人だった。
ケルンでベルトラム教授に師事した際は、ベルトラムを取り巻く、芸術至上主義者達と親しく交遊、深い影響を受けた。その友情は終生変わらず、中でもハンス カロッサ、シュテファン ゲオルゲ、ヘルマン ヘッセとの交流は最後まで続いた。
そしてドイツ留学時代、最後に学んだのがエルンスト ユンガーである。
日華事変にともない、ベルリンから帰国の途につく芳賀博士を見送ったのはユンガーであった。
最後まで、ホームから姿が見えなくなるまで手を振ってくれていたその姿は、終生忘れられなかったという。ベルトラムとともに,芳賀博士に学問の深さのみならず、その人格を通して敬愛せしめたのも彼だった。

ユンガーもベルトラムも芳賀も共通する事は、常に誤解と無理解にさらされ続けた事である。
極端な評価と誹謗は生涯その身を包み、常に孤独であった。
だが、その人格は卓越しており、歴史を見下ろすような巨視的な視野は、20世紀の精神史の巨人であるというにふさわしい。そして、その精神に対する無理解は今日でもいささかも変わらない。

人類は、ヘルダーリンを発見するには第一次大戦の悲惨を経なければならなかった。
やがて未来の人類が、その新たな悲惨を持って、美と深淵の悲劇を、贈与の精神の深さをやがて理解する時が来るのであろうか。

ーーーーー

檀の父、芳賀矢一は、明治きっての文化人として、明治政府肝いりの学者の一人であった。
ドイツ文芸学を日本に移入すべく、ドイツに渡った矢一の下には、森鴎外、夏目漱石などの文人が頻繁に訪れ、芳賀邸はさしずめ、文学的なサロンの様を呈していた。
矢一は息子の檀にドイツ語で教育を授け、そのおかげで檀が東大に進学する頃には、大学のどの教員よりもドイツ語が達者だったという。
東大ではシラーを専攻していたという檀は、ある教員のすすめでドイツに渡った。
費用は大学で負担し、帰国後は教職が約束されているはずであった。
当代を代表する大学者達のもとで学ぶ学問は、日本のそれとはあまりに次元をことにするものだった。
約束の費用はいっこうに届かなかったが、後に人参をかじりながら学んだその時代ほど充実した時はなかったと語っている。

そんな時、ケルンに在学中の芳賀のもとに届いた手紙は衝撃的なものだった。
”状況が変わったので、以前の約束はなかったことにして欲しい。費用も送る事はできない”
後になってわかったことは、ドイツ留学とは、体よく芳賀を大学から追いやる画策に他ならなかったことである。それは芳賀を妬む人々の画策であった。
金のことでもない、生活のことでも将来の地位のことでもない。
芳賀を傷つけたのは、心を引き破る人間のその残酷さであった。
それは名家である芳賀邸に育ち、人間を信頼することこそ美徳と信じ教えられて来たものにとって、世界が崩壊するに等しかった。
人の裏切り程残酷なものはない。この世で最も美しいものが友情であるならば、この世でもっとも恐ろしく残酷なのも人の心である。

死を決意した芳賀はラインのほとりを夢遊病者のように彷徨った。。。
この時のベルトラムとの出会いはまさに運命だったのかもしれない。もしこの世に運命というものがあるのならば。
人生に意義があることを示す唯一の方法がある。それは、人間の愛と友情が、死を越えて力を持ちうるという事実を知る事である。
それ以外の全ての思想は、ニヒリズムに行き着く他はない。
死すべき存在である人間は、死を越える力を得てはじめて、その存在の意義を知ることができるのだ。
 


付記
その後芳賀は日華事変勃発を機に帰国。
保田与重郎などと共に日本浪漫派の代表者となる。『古典の親衛隊』、ナポレオンを題材にした『英雄の性格』、『方法論』など多数の文芸評論を手がけ、若手文芸評論の騎手と目された。
しかし、戦中もナチスのユダヤ人政策などに明確な批判を加えたにも関わらず、戦後、文化人戦犯として問われ、事実上、日本文壇から抹殺される。この規準では日本のほとんど全ての文人、文化人が芳賀以上の戦犯であるにも関わらず、罪を逃れたのは、彼らの節操なき戦後の変わり身の早さを示す以外の何物でもない。
彼らの書いたものを一瞥するだけで、人間とその歴史の真実とはいかなるものか、その一端を知ることができるだろう。
戦後は諸私立大学で教鞭を取る傍ら、フルトベングラー、ヘッセ、ニーチェ、カロッサ、キルケゴールなど多くの翻訳を手がけた。
晩年に、それまでの思想を集大成するかのように、詩集、戯曲集を出版(詩集アテネの悲歌、詩集背徳者の花束、戯曲集レオナルドダビンチ、戯曲集千利休と秀吉など)。また最晩年に念願であったヘッセ著作集も手がけた。


ドイツ時代の芳賀檀 1934年

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若き日のハイデッガー
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M ハイデッガー、E フッサール
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E ベルトラムの主著, ”ニーチェ、ある神話の試み”
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# by schale21 | 2008-01-11 08:49 | 詩と文学 | Comments(1)

平和への構想

ガルトゥング博士のインタビュー

先日(11月)の毎日新聞の記事に、敬愛するノルウェー出身の平和学者、ヨハン ガルトゥング博士(Johan Galtung)へのインタビューが掲載された

(http://mainichi.jp/select/wadai/heiwa/talk/news/20071126ddf012070019000c.html)。

博士は自分がもっとも影響を受けた現代思想家の一人であり、私の友人と交流もある。
博士は構造的暴力という画期的な理論で知られ、平和学の父、創始者とも呼ばれる。また、政治的影響を受けない、真のノーベル賞ともいえるAlternative Nobelpreis, - Right Livelihood Award -(RLA)の受賞者として知られている。

”1945年、第2次世界大戦が終わって以来、アメリカは世界で67回の軍事介入を行いました。また35人の各国の指導者暗殺を企て、あるいは暗殺しました。それから分かっているところでは、アメリカは1945年以降25カ国に空爆をし、11カ国で拷問を行い、国内選挙に介入したのが23カ国です。選挙を操作するわけですが、その23カ国のうちの1つが日本でした。ですから、この原理主義、イスラム圏の原理主義のワハブ派に対してどんなに厳しい批判をしても、とてもアメリカのやってきたことの比ではありません。”

博士は、その他、先住インディアン殺戮の歴史など、当のアメリカ国内でも平気で繰り返し講演するような勇気のある人であるが、学生たちは、顔を背けてほとんど聞かないそうである。

毎日新聞のインタビューの内容は、このような世界的大学者に対するものとしてはあまりに稚拙で、影響の大きい大新聞での紙上ということとあいまって、どのようなレベルで回答すべきか博士も迷われたことであろう。
だが、もとより知日家で(奥様は日本人で、日本の各大学で積極的に講演、教鞭の場を持つ)、視野の狭い近視眼的な日本の知的状況を知悉しておられる上、また、紛争研究の現場でのあらゆる階層の人々との対話の経験から、状況に合わせた上で、もっとも価値的な回答を引き出すことにはさほど苦労はいらないのかもしれない。

その中で博士は、もっとも根本的な問題についてこう端的に語っている。
 ガルトゥング ”その国特有の文化、ものの考え方ですね。ディープ・カルチャーつまり「深層文化」は紛争の形態や解決に大きな影響を及ぼします。たとえばアメリカ民族の深層文化は、世界は善と悪から成っているという二分法の考えです。自分は善だからアメリカに従わないのは悪だと決めつける。一方、日本民族は善と悪という発想法ではなく、上下関係でものを考える。このためアメリカによる占領下で、日本は人類史上もっとも従順な国でした”
私が戦争と平和の問題を考える上でもっとも注目するのがこの文化の問題である。そして、文化の根底には宗教、あるいは宗教的世界観がる。
単純な例では、アメリカ合衆国は原理主義者によって建国された国であり、この国の政治、文化を理解する上で、その点を無視するのは全くのナンセンスである。
また、日本や北アジアでは仏教、儒教的な背景から、文化的な寛容さが、明確な悪に対しても寛容な文化を作り出し、正義の観念のない、ある意味、節操なき態度を生み出している。いずれも暴力に対する抵抗力と言う観点からすれば、暴力促進、あるいは暴力容認につながっており、無力な文化であるといわざるを得ない。
戦争と暴力、平和の問題は人間存在の根幹に関わることであり、この視点で考察するようになってから、私の人間とその歴史に関する疑問の多くに回答の糸口を見いだせるようになった。それほど根本の重要な問題である。

また博士は、憲法9条について、”平和憲法といわれていますが、私に言わせれば憲法9条は消極的平和を謳(うた)っているにしかすぎない” と回答している。
これも、平和とは何かという博士の平和理論の根本に関わるテーマである。
日本にはたして武装防衛という唯一の現実的手段をとることが可能だったか、あるいは今後そうなる可能性はあるのかといった政治分析は別にして、今後、消極的平和といわれる点については多くを語っていくつもりである。

--最後にアジアの安定のための方策は。
 ”ガルトゥング 現実にとらわれずにニューリアリティを築き上げていくことです。かつて戦争をしあった国がまとまったEU(欧州連合)という、お手本があるではないですか。ここは東アジア共同体をつくって、共通の通貨を導入することです。日本と韓国と北朝鮮それに台湾を含めた中国との共同体は、EUに比べて人口的にはもっともっと大きくなる。日本にとって大事なことは、これらの国に協力関係を強く働きかけていくことです。つい先日、韓国の済州島に行ってきたのですが、東アジア共同体の本部として素晴らしい立地条件だと思いましたね”

今後、年内(2008年)にも起こるかもしれないドルのさらなる崩壊と覇権通貨からの脱落によって、世界的な通貨統合の流れはより加速されていくだろう。将来はドル自身も米大陸(あるいは北米)共通通貨に統合されていくかもしれない。
だが、人々の知識が”常識”となるのは、大抵、その事象が現実となって、さらに古びた過去のものとなる頃に起こるものである。ちょうど人々が、アメリカの凋落が始まった時、その繁栄を信じ、覇権を受け入れたように。
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# by schale21 | 2008-01-05 07:49 | 平和への構想 | Comments(2)

平和への構想

平和学について
”平和学とは健康と病気について研究する医学に等しい”趣意
       ヨハン ガルトゥング

他の動物と同じように、先史時代より人類は生き延びるためにあらゆる努力を重ねて来たが、その最大のものは戦争に関するものである。武器を発明し、政治的手段を発達させ、時代に応じ、あらゆる戦略、謀略を重ねて来た。ハンニバルやアレキサンダー、ナポレオンを待つまでもなく、歴史上のもっとも讃えられた優れた天才達の多くも軍略家達だった。
精神的指導者であるバラモンを頂点においた古代インドを例外として、社会の指導的立場にあったのも常に軍人達であった。
おしなべて、人類の才能と資産のほとんどは、戦争とその準備のために注がれて来たといって過言ではない。
だが、戦争を回避するための手段とその研究、そして平和そのものについての考察は、仏陀や孔子、イエスやマホメット、カントなど幾人かの天才思想家を挙げうるばかりである。
そればかりか、イエスやマホメットの思想はかえって新たな紛争の口実として利用された。貧者の救済と、社会的正義の実現を夢見たマルクスの思想もその運命は同じであった。
だが人類は今、”生き延びるために”、戦争のための手段ではなく、平和のための手段とその研究を必要としている。
その実現のためには、おそらく、人類が今日、軍事研究に注ぐ費用と才能の一万分の一で足りるものかもしれない。

平和学は20世紀半ば以降の、ごく最近産まれた新しい学問である。
ひるがえって、人間がいかに長く軍事研究にその精力を注いで来たかを思えば、たったそれだけで、人類という種がいかに病んだ種であるか伺い知るに十分である。さらに言えば、平和学という名称そのものが、平和とは研究に値する”特殊な状態”であることを婉曲に語っているともいえる。本来は”戦争学”であるはずである。
この事実に目を向けるだけで、人間にとって戦争こそ日常の状態であり、平和とは戦争と戦争の間の”停戦状態”に過ぎないことが見てとれる。実際、古来の多くの思想家達も、この停戦状態の実現を前提として思考を進めていた。これでは、人類とは、殺戮の欲求に取り憑かれた精神異常者であるとの烙印こそふさわしいものと言える。
平和学とは、この病の根源の解明と治療法に関するものであるといってよい。
それは精神的な病であり、今日、私達を滅亡に追いやろうとしている最も危険な病である。
そしておそらく、人類史上、最も多くの命を奪った病である。
だが、患者は、多くの精神異常者がそうであるように、自らの病に気づいてはいない。
動物学の分野でも、人間の殺戮に対する欲求のありかたとその規模は異常である。にも関わらず、私達は、日々、自らを美化し続けることに夢中になっている。

この治療法の研究のためには、人間のあらゆる知識を動員せねばならない。それは人間そのものに関する学問だからだ。
大学で研究される現在の学問分化の基礎は19世紀に作られたものだ。
すなわち、今だ我々は、19世紀的な学問体系の系図の中にいるといえる。人類にとって最も重要な基礎体系である平和学のためには、この古びた学問体系はなんの役にも立たない。
社会学、政治学、経済学、史学、地政学、考古学、生物学、動物学、文化人類学、生理学、心理学、宗教学は平和研究の基礎学として動員されねばならない。実際、これらの研究は、重要な軍事研究の資となっている。ここで平和研究と軍事研究は、その目的こそ異にすれ、ほとんど表裏一体の姉妹学であることが見て取れる。
おそらく、現在でもっとも平和研究のための施設と研究者、実績をそなえているのは米軍であろう。実際、近年の多くの紛争への軍事介入に、もっとも反対した専門機関も米軍である(バルカン、中東)。
それは近年の紛争が、ただ政治的手段としてのものだけで、軍事的な意味をもたないものであることを物語っている。米軍の研究レベルが、生き延びるためのもっとも効率的、現実的な手段が紛争回避であることを知る段階に達し、既得権益の代理人である文人政治家よりも、紛争問題専門家である軍人政治家の方が平和的な解決を望むという皮肉な事態となっている。

自分のいう平和学とは、このような極めて包括的な研究を指している。またここで、戦争、紛争とは、何より心理的態度のことを指しており、いわば人生の生き方の問題といってよい。つまり、人間が世界と自分の人生向き合う向き合い方のことを言う。
この意味で、人間はその環境(地球)に対しても常に交戦的状態にある。
現在、大学や様々な研究機関では、平和学はおもに国際政治学の一部として扱われているが、国際関係論で扱う平和学は、医療でいえば処方箋にあたるものにすぎない。それはなぜ人間が暴力を好み、戦争と暴力を美化し、取り憑かれたように自己破壊にいたるまで止めようとしないのか、その病理の解明に役立つことはない。それは多分に心理学や宗教学の問題でもあり、また、他の動物との比較においては動物学や、また考古学、人類学上の問題である。しかし、政治学上の理論と実行が、現場の臨床的な対処にもっとも不可欠な要素であるのも論を待たない。
このような包括的な研究を行う研究者や機関は少なく、そのためには膨大な予算、総合的な研究を統括する指導者の存在が不可欠である。
問題を最も多角的に捉える一人はガルトュング博士である。博士はこの分野の創始者の一人であり、現在でも第一線の研究者でもある。

人類が暴力と平和の問題の考察通して、諸学の統一的な
Universalenzyklopädien(総合的知識体系)を手にすることが可能となるかもしれない。
だがそのためには、戦争とその温床である暴力と殺戮の賛美は許容されず、科学において価値の中立性は認め得られない、すなわち暴力は悪であり、平和は善であるというモラルが科学の中に持ち込まれる必要がある。
これは何も、画期的なことであるわけでも中世への回帰でもない。現在でも科学は、一神教の神に奉仕している。その発想の基準は一神教的思考に基づくものであり、それゆえ、価値(モラル)の中立を持ってその本質を隠している。
神に奉仕しているのは、ビッグバン理論だけではないのだ。

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# by schale21 | 2007-12-27 12:05 | 平和への構想 | Comments(6)

運命との闘争

第5回  エゴの超克 写真家ラリー ウイリアムス

”贈与しうることは、その人の最も不滅の所有である”
                                 芳賀檀 『アテネの悲歌』より

1955年。
700年に渡って全中央ヨーロッパを支配した、ハプスブルグ帝政が終焉を告げて今だ三十数年。かつてヨーロッパの首都と言われた帝都ウィーンは、二度目の大戦による辛酸をなめ尽くしていた。
かつての大帝国は十分の一の国力しかない小国として、再出発しようとしていた。
ベルリンと同じく、米英仏露の4戦勝国による分轄統治を終えての独立は、期待と不安に満ちたものだった。
同じ年のイタリアアルプスの街、コルティナダンペッチオで行われた冬期オリンピックでは、チロル州出身のトニー ザイラーがアルペン三冠王となって、独立に華を添えていた。
彼の英雄的な勇姿は、敗戦に沈む国民にとって言葉にならない感動を与えたことだろう。
このオリンピックで、同じく敗戦国である日本の猪谷千春は銀メダルを獲得、これが今日に至るまで、史上唯一の日本人が獲得したアルペン競技でのメダルである。
この頃のウィーンの姿は、映画『第三の男』の舞台となり、世界中に知られるものとなった。

ラリー ウィリアムスが、オーストリア人の父とアメリカ黒人女性との間に産まれたのは、そんな時期のことである。
だが幼いラリーは父を知る事もなく、母親一人に育てられた。
優しい母は、居酒屋やバーで働きながら教育費を工面した。
社会党政権の街とはいえ、古い階級社会の名残の強い社会である。貧しい家庭に育つラリーが将来苦労しないためには教育しかない。
福祉も教育も発達した国ではあったが、金持ちや貴族の末裔の子弟の多くは公営の学校に通うことはなく、私立のエリート校に学ぶ機会に恵まれた。ウィーンのエリート校では授業は全てフランス語で
行われた。母はどんな苦労をしてでもラリーをこの学校で学ばせたかった。

彼は幼い頃から画才に恵まれていた。学校では知的な刺激も多い反面、そこで植え付けられるのは強烈なエリート意識でもあった。特別な階級に属さない彼にとって、その意識の裏付けは、自らの才能、知性でしかなかった。
いつしか成長した彼は写真家を夢見るようになった。

二十歳の時、母が急逝した。
唯一の身寄りであり、心の支えであった母。どんな時でも彼に希望を与え、明るい笑顔を絶やさなかった母。
人は心の痛みを乗り越えて人間となる。乗り越えた傷が大きい程、豊かな生をおくる可能性が広がる。人生を堪能しきる権利を得る事ができる。
そして自己の限界、エゴの限界を破る事が可能となる。

天涯孤独になった彼を勇気づけたのは、母の同僚達であった。
貧しいバーで働く同僚達が、お金を集めて彼のためにニコンFを贈ったのだ。それは庶民の手の届かない夢のような高価な宝物に等しかった。そして写真家として身を立てようという彼への出来る限りの激励だった。

写真家となるなら、世界の造形芸術、ファッションの中心であるパリに学ぼう。思い立てば行動は早かった。もとよりフランス語は母国語に等しい。
パリで彼の才能が開花し、認められるには時間はかからなかった。世界的写真家、ヘルムート ニュートンのアシスタントとして、この上ない環境で自らの才能を磨く事ができた。
数年後母国に帰国することには、早くもにスター写真家としての道を歩みだしていた。
Hニュートンから学んだ最大のこと。それは『普通』であることだったという。
ニュートンはその世界的名声など歯牙にもかけないかのように、気取りもなく普通の人間として振る舞った。そしてただ淡々と、自分の仕事を貫徹することだけに集中していたという。クライエントやマスコミの評価も批判も、全く意に介さなかった。

母国で気鋭の写真家として出発した彼に、すぐに大きな出会いがあった。
あるファッションショーの撮影に彼も招かれていた。一通りプログラムが過ぎ、おおとりが終わって幕引きかと思われた。
ところが、終わったと思った次の瞬間、ウェディングドレスに包まれたモデル達が舞台に現れた。
それこそがショーのクライマックスだったのだ。
ラリーの隣の写真家は既にフィルムを使い切ってしまい、彼の撮影したものを後で見せてくれと頼んだ。
彼の名は、オーストラリア出身の高名な写真家、パウル ハリスであった。
ラリーの撮ったものを見たパウルは、すぐにラリーの才能を見抜いた。芸術家ラリーが最も影響を受けた出会い、それがパウルとの出会いだった。
パウルもまた、ニュートンと同じく、名声や成功にはなんの関心も示さなかった。
多くの写真家、芸術家が、また駆け出しのラリーもまた、当たり前の社会的成功を求めて日々努力し、格闘していた。パウルはそんな行動を見下ろし笑うかのように超然としていた。
自分達があくせく怯えながら求めているものはなんだろう。ラリーはそんな疑問を押さえることが出来なかった。

パウルはある時、自らのエピソードを語った。
すでに写真家として成功していたパウルは、いつものように依頼されたものを撮っていた。
だがわき上がる疑問を押さえることは出来なかった。
これが自分が求めていたものか? 成功、名声、金、、こんなもののために自分は努力してきたのか。
写真とはいったいなんだ? なんのために自分は撮っているのか。
くだらない! どうしようもなくくだらない!
そう感じた彼は、手にする機材を全て海に投げ捨てたという。まるで虚飾の世界そのものを投げ捨てるかのように。
飄々と、淡々と自らの欲するものを撮り続けるパウルの姿は、ラリーの脳天を打った。

商業写真家として若くして成功を収め、充分な収入を手にしたラリーの前途は洋々と思われた。
スタジオ、機材に投資し、仕事も順調、内面まで自然に美しく描き出すポートレーに、多くの俳優、モデルが撮影を依頼した。
若く美貌と魅力に溢れ、また、どことなくエキゾチックな風貌を持つ彼に魅了される女性は後を絶たなかった。
会話は知的でありながら、野性味に溢れ、誰もが彼を好いて嫌う者は誰もいなかった。

だが、失意は突然訪れた。
彼の才能、能力を疑うものはいなかったが、突如として仕事が途絶えた。
流行という、ファション業界の宿命なのか。ニュートンやパウルなど、影響を受けた芸術家の妥協なき生き方が、おもねることを嫌う性格を作り上げたためなのか。
仕事の途絶えた彼にとって、スタジオへ投資した金額は莫大なものだった。借金が返せなければ、最悪、投獄の危険さえあった。この不安との戦いは、その後数十年続くものとなる。
投獄の不安、経済闘争、芸術家としての誇りとジレンマ。そして故郷でのエリート校の同僚達に見せなければならない虚栄も、彼の焦燥をいっそう不幸なものにした。

この頃、業界や、かつての校友達とは違う交遊もまた持つようになった。
それはもっと『普通』の人たちとの交遊であった。彼らはエリートでもなく、知的な仕事についているわけでも、芸術家でもなかった。だが、不思議なことに、その無名の普通の人たちこそ、彼の本質を最も厳しく見抜いた人たちだった。
彼らは言った。君は確かに多くの才能に恵まれている。そして多くの人に愛され、憧れの存在ですらある。だが、君は偽善者であり、君が求める成功など、浮き草のような虚栄に過ぎない。
友人の叱咤はあまりにも厳しく、残酷であすらあった。誇りを傷つけられた怒りも、失望もあった。
だが、その言葉は真実を突いていた。はじめて心に突き刺さる言葉だった。そして、自らの心から逃れることは誰もできない。
写真に関心のないその友人達は、ただ彼の人間性以外には興味はなかったのだ。
彼らは、例えラリーがどれほどの世界的な写真家となったとしても、露ほどの関心も示さなかっただろう。
これまで成功を求め、華やかではあっても狭く、虚飾に満ちた世界に生きて来た彼にとって、それは未知の分野での新たな挑戦に等しかった。それはいわば人間性を磨く戦いであった。 
国連に勤める妻と知り合ったのも、ちょうどそのころであった。借金のあるような男、芸術家気質で苦労するのは目に見えていると、反対する者も多かったが、夫の借金は自分の借金だと言い切った。
彼女もまた、ラリーの成功不成功ではなく、人間性の可能性に賭けていたのだ。

仕事柄、ジャーナリストとの付き合いも多く、語学が達者である彼は、次第に政治や平和の問題に関心を深めていった。
国連、とりわけ国際原子力委員会やOPECなど、もっともきな臭い組織が本拠を持ち、東西冷戦の狭間であるウィーンは、世界のスパイ天国でもあった。平和な市民生活をよそに、レストラン、高級ホテル、あらゆるところで情報合戦、盗聴合戦が繰り広げられていた。
広い交遊と、社交的な人柄を持つ彼のもとには、様々な人が集まったが、しだいに階層も職種も多様なものとなっていった。
そうして集るものは、単なる情報だけでなく、生きた生身の人間の感触であった。
彼が見て来た世界、贅沢で、虚飾に満ちた苦労を知らないエリートの世界、一流芸術家とそれを取り巻く人々、そのビジネスの世界、名もなく欲もない、無名であることをむしろ享受しているかのような友人達、そして貧しかった母とその同僚達。
研ぎ澄まされたその人間に対する感性の前に横たわるのは、日々繰り広げられる冷酷な国際政治の現実であった。
この世界は何かが狂っている。しかしそれを変えるのは確かに可能なはずだ。なぜなら狂っているのは、彼の知る一人一人の人間達でなく、その機構、その組織、そして人々が信じる常識の多くに他ならないからだ。

写真家ラリーは言う。
”自分は最高のアマチュア写真家でありたい”
それは写真家である前に、最高の人間でありたい、そして、それこそ写真家として最も本質的なことだという宣言である。
何も特別なことはいらない。ただ喜び悲しむ一人間として、何より他者の不幸に共に苦しむ勇気を持つ者として、巨大な不幸を産み出す不正義に、言葉と行動を起さざるを得ない者として生きる事、それだけが重要であると。

撮影ラリー、ウィーンの森に輝く月光、地元の俳優達
Photo, Copylight Larry Williams
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ラリー氏  彼の自宅にて
Photo Schale
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# by schale21 | 2007-11-30 09:53 | 運命との闘争 | Comments(2)

変動の時代 3

神、野獣、神話の中の国家

’流血の聖書を閉じることは至難の業である。
何故なら毎夜聖書は血をもって書き足されている”
    芳賀檀  ”アテネの悲歌”より

世界には様々な不思議な事があるが、その最大のものの一つが、他ならぬ殺人に関するものである。
しばしば肉食と殺戮、とりわけカニバリスムスと殺人は祝祭的な喜びを伴って行われてきた。

歴史の進展とともに、個人の殺人は許されざるものとして制限されたが、人間が持ちうる最大の権限である殺人権は、のちに国王と国家に委ねられた。
殺すという権利は、他のものに超越した、他者に振るいうる最も絶対的で最高の権利である。人の命を奪いうるということは、全ての権利に超越している。
個人としての殺人が許されないのは、それが”人間”として行使しうる権利の範疇を越えているものと認識されているからに他ならない。
つまり殺しうる権利を正統に持ち得る者は、人間を越えた存在ということになる。
それは古代から現代に至るまで、人間ではなく神に属する権利であった。

近代社会では、国家にのみ殺人が許されている。それは戦争と死刑を指しているが、この二つは共に、人間の上に君臨する絶対者の権利の行使であるという点で同じである。

そして最も不思議なことは、国家の持つその権利を人々は自明のものとして受け入れ、問題にされることがないことである。
すなわち、国家の持つ権利は絶対的で、無批判な存在である。

もう一つ、この無批判性という特異な性格を持つものがある。
それは神である。
神は絶対的な存在であり、その権利が疑われることも検証されることもない。
その権利に疑いを持たれるとき、神は神ではなく地上の存在(不滅ではなく、死を持つ、滅する存在)となる。
ここに神と国家が事実上同義であることが見て取れる。
すなわち、国家の権利とは神の権利に他ならない。それは地上の全ての権利に超越し、いかなる批判も受け入れない、完全に無反省な存在である。
国家概念が出来る前(18世紀)、その権利の保持者は王であった。
それ故、地上の王は、しばしば神の代理人(古代において王はしばしば司祭であった)、あるいは神の権利を受け継ぐもの(王権神授説)であった。
それは神に替わるものとしてしか、殺人の権利を行使し得ないことを知っていたからである。

では、いったい神とは誰なのであろうか。

神の性格、特質を考えてみよう。
彼は残忍である。そして絶対的に無反省である。自らの誤謬を問う事は神の本質に属さない。その本質は批判を受け入れない絶対性にあり、その由来と出生が問われるとき、神はその地位と意味、権力の本質を失う。

彼は驚く程短気で激情的である。そして気分屋である。
好悪の情が激しく、愛する者には寛容で柔和だが、気に食わなければいかなる厳罰も躊躇することはない。そして、しばしば激しい好悪の情は同じ相手に向けられる。場合により、一国家、一民族の殲滅も稀ではない。
そして、彼の権力は、この絶対的な暴力と罰する力に裏付けられている。


ーーーーーー

人類の歴史をひもとくとき、興味深い事実が浮かび上がる。
類人猿であった我々の祖先は、比較的安全な樹上生活を捨てて、サバンナの平地に降り立った。
そこは豊富な獲物に恵まれた環境であると同時に、自らが強力な肉食獣の獲物に容易になりうる、危険極まりない選択であった。
そして恐らく、この勇気ある決断に人類の多くの秘密が隠されているのかもしれない。

木を降りた我々の祖先は、大型肉食獣の格好の獲物であった。
足は遅く、強い顎も爪も持たない。
近代や現代においても、住民の大半が虎やライオンの餌食となって没落した村落は、インドやアフリカに後を絶たない。
ある類人猿の調査では、ヒョウなどの大型猫類による幼児期のからの殺戮は、個体の半数を越えるという。
我々の幼児期において、もっとも恐れる悪夢は虎やライオン、熊、狼などの肉食獣動物の餌食になることである。この幼児の持つ悪夢は、世界の民族に共通するものであるという。
これは我々自身の生命の歴史の記憶を語っているにすぎない。

しかし、古代人にとって、これらの恐るべき肉食獣はまた、畏敬すべきライバルでもあった。
我々の祖先はまた自ら狩人でもあったからだ。
その強い力と俊敏さで獲物を狙う姿は、同じ獲物を追う者にとって強い憧憬の的であり、また競うべき存在でもあったことだろう。
このライバルにして、畏敬の存在、そして何より、自らの命を奪う、逆らい難い恐るべき力を秘めた超越的な存在。
野生に生きる祖先達にとって、大型の肉食獣はまさにそういう存在であり、力と権力の象徴であった。
現在においても、世界の国旗や地域の旗、シンボルなどに最も用いられるのが、野生の肉食獣達のモチーフである。
古代、中世においてはその傾向はなおさらであった。
熊や虎、ライオン、大型の猛禽類。これらが国家や共同体の象徴とされるのは偶然ではない。

この人間の野獣に対する憧憬、畏怖と、神に対するそれはあまりに酷似している。
そしてなによりその性格自身も。
すなわち神の本質は野獣である。
彼の恣意的な暴力と絶対的な無反省性は、そのことを指し示している。

人間社会において近代化とは、世俗化の異名に他ならない。
宗教性、神秘性は陰を薄め、理知的、合理的、論理的な思考とシステムが取って替わる過程である。
しかしそれは権力の行使と、実行のあり方の変更であって、権力の本質そのものにかかわるものではない。その本質、権力それ自体は今だ問いとして発せられることはなく、疑義を挟まれるこのない自明のこととされている。それは聖なるものの領域である。
それが、殺人が人間の最大の犯罪であると認識されていながら、国家の戦争権が疑問とされることがない、解き難い矛盾の秘密なのだ。
つまり、国家の本質と殺人権は、未だ神話の中の事象であり、宗教的な絶対性、無批判性を伴っている。

合理性を重んじる、英米などのプロテスタント国家においても、国家のみは聖なる存在である。
人々はその信仰を、宗教的なものであるとすら自覚していない。
神の権利を引き継いだ国家。この国家の名の下に犯罪は正当化され、驚くべき、想像を絶する残忍さが容認される。それは合理ではなく、神話的な出来事であり、血をともなう祝祭である。

殺戮と祝祭。戦争に伴う熱狂。
第一次大戦の勃発においても、欧州諸国では、熱狂的な昂揚と喜びに満たされた。
それは多くの戦争において同じであった。まるでコロッセウムのグラディアトーレ(剣闘士)をめぐる熱狂のように。
それは温かい血がしたたる肉を食らう、動物の熱狂に他ならない。


注 類人猿時代からの、神、野獣と人間の心理を廻る考察は、ある女性社会学者、ジャーナリストの思索から刺激を受けたものです。
またここで指摘する神とは、主に一神教(ユダヤ教)的な性格の神であり、東洋的な多神教の神、シャーマニズムの神々(日本の神道、古代北欧ゲルマンの神話、ギリシャやローマの神々、インディアンの自然神信仰など)では状況を異なる場合が多い点、さらに、後に、大乗仏教の影響を受けたであろうイエスやマホメットが、あまりに厳格に過ぎる神(ヤーベ)に、より人間的な性格をそこに盛り込もうと試みたことも考察する必要があります。

写真、文、シャーレ
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# by schale21 | 2007-11-14 23:37 | 平和への構想 | Comments(6)

変動の時代 2

英米文明の衰退
'Apres l'Empire'

21世紀に入り触れた書籍の中で、もっとも刺激を受けたものの一つが、フランスの社会学者、政治学者として知られるエマニュエル トッド氏の有名な著作である。
アメリカの来るべき没落を予言したこの書物は、11Septemberのテロ事件、そしてその後のいわゆるテロ戦争を通して国際的にもすっかり有名なものとなった。
これが書かれたのはテロより前であっただけに、反響は一層大きなものとなった。

その中で最もユニーク且つ深い洞察は、帝国の崩壊の前兆を示す最重要な統計項目として、識字率や出生率と並び、幼児死亡率を挙げていることである。
著者によれば、これらの統計が示す数字は、経済学者達が政治的影響を受けて流す経済統計、政治予測よりも遥かに重要であり、一国の真実の姿を如実に、そして残酷に映し出すものだとしている。
これらの統計はまた、氏が70年代半ばにソ連崩壊を予言した際にも基礎となったものである。
冷戦真っただ中、世界を二分する超大国の一角と思われていたソ連の崩壊を予言するものなど当時は誰もいなかった。
それだけに、アメリカの覇権の喪失を予告したその言説は、非常な重みをもって受け止められた。
だが、この米国の覇権の喪失の本質とはいったいなんなのだろうか。
自分はそれは、大枠での英米文明の衰退の一環であると捉えている。

人間の歴史は概ね殺戮と簒奪の歴史である。
だが、その中でもより好戦的、破壊的な文明、国家もあれば、より調和的、平和的な文明もあった。
後者の例が古代エジプトとすれば、その対極が古代ヒッタイト、あるいは近代西洋文明である。
そして、ビザンチンや中国、インドの文明はその中間的な性格と言えるかもしれない。

ユーラシアの西端、ヨーロッパ半島の歴史は複雑である。
今日の西洋文明は地中海文明の継承者であることを自認しているが、実体は地中海全域から中東、インド北西部まで、密接な関係を持って連なる古代ユーラシア、地中海文明とは多くの点で異質なものである。
その断絶を最も決定づけるものはキリスト教であり、もう一つはその性格、種族がより北方的なものであることである。
日沈む国、西洋の文明は中世に産まれ、古代や東洋の遺産を吸収しながら、急速に発達した世界でもっとも若い文明であるといえる。

この西洋のさらに西端にある島、ブリテン島は、大陸に拠点を築くことは叶わなかったが、大陸諸国との海外での競争に打ち勝ち、海洋国家として早くから世界貿易を支配した。
同じく西欧の辺境にあり、その略奪行為で旧大陸のみならず、グリーンランドから新大陸まで席巻した北欧民族が、その後急速に歴史の舞台から消えたのとは対照的に、英国の繁栄は数百年間続いた。
その繁栄の根幹は奴隷貿易と海賊行為にあった。自ら富を生産しない者が繁栄し生き延びるには、他の者が持つ富を奪う以外にない。
この苛烈な人身売買は、残酷極まりない人類史の中でも、近代の最大の汚点の一つといってよいだろう。
中南米においてはこのため、現地の住民はヨーロッパからの細菌の移入とあいまってほぼ絶滅した。

19世紀の初頭、清国は今だ世界の富の半分以上を生産する経済超大国であった。
近代以降、これと比肩しうるのは第二次大戦直後から、60年代までのアメリカ合衆国だけである。
海洋国家として、世界に植民地を築いた英国は、この清国に貿易として提供しうる生産材は何も持たなかった。
輸入超過と銀の流出に悩んだ英国は、アヘンを東洋の植民地で生産し、清国との貿易にあてることとした。
これに反発した清国との間に起こったのがアヘン戦争である。
同じく、優れた文明大国であったインドでも、半島内の抗争に乗じて全域を支配に収めることに成功した。統治上の最大の関心事は、国を二分するイスラム教徒とヒンズー教徒を反目させることであった。団結したインドには、島国英国は勝ち目はないからである。
これと同じ巧妙な手段で、中東、アジア全域に渡り影響力を行使し続けた。
その影響は中東に、アジアに、アフリカに今も深い傷跡を残しながら続いている。

20世紀の二度の大戦はその英国を疲弊させ、その覇権は米国によって継承された。また英国は陰に陽に米国内に影響力を維持する事で、米国の陰に隠れながら覇権の一部を維持してきた。
そして、このかつての植民地にして最大のライバルでもある米国は、様々な面で英国の手法の継承者でもあった。その最たるものは内部の分裂を煽る事による分轄統治の手法である。
反目しあうユダヤとイスラム、イスラムとクリスチャン、シーア派とスンニ派、左派と右派の対立、そして冷戦、これらはみな近代になって人工的に造られた伝説であり、手の込んだプロパガンダの成果にすぎない。
数百年続いた英国、そして米国の覇権によって世界は様々な形で分断された。
意図的に作り出された分断と反目は、あたかも数百年、数千年も前からの事実であるかのように喧伝され、今日の”常識”となった。

プロパガンダで大衆を操作するには、大衆の教育を制限せねばならない。彼らは決して自分の頭で考える利口者であってはならない。また大衆は手段であり、決して目的であってはならない。
このような哲学は、ソ連崩壊の後、あたかも時代がフランス革命以前の状態に遡りして、新たな階級社会の出現を想起させるようだ。
実際、フランスでの市民革命から、ソ連崩壊までの200年に渡る一つの時代が幕を閉じ、新たな激動の時代に突入したといえるだろう。

米国の製造業は衰退し、国家も個人もクレジットの山となったが、崩壊前のソ連と同じく、盛んなのは軍需産業である。それ故、彼らは紛争と危機を必要としている。紛争と危機は常に新たに編み出されなければならない。冷戦後のあたらな長期戦争は対テロ戦争と名付けられ、それは今世紀一杯続くともいわれている。
だがその背後には、迫り来る気候変動に備えた、食料と水、エネルギー確保に向けた長期戦略も垣間見える。
その過程でアメリカという国家は劇的に衰退するだろう。だが今日、そこでは”国家”を本気で問題とするものはいない。革命前のヨーロッパと同じく、”階層”の繁栄こそ問題となっている。国家はその隠れ蓑にすぎない。

かつて暴略を極めた北欧は、世界でもっとも平和的で福祉的な社会を実現した。
人類史上、例のない殺戮の歴史を刻んだ欧州は、その社会民主主義的発想と高い教育環境で、二度と地域内紛争と暴力のない社会を実現しつつある。
エマニュエル トッド氏の予言通り、新たな欧州が、紛争と分断、略奪を基とする英米的価値観に取って替わる勢力となるとき、もう一度歴史は大きく動く事になるだろう。

by schale
schalephoto@yahoo.co.jp


17世紀に書かれた聖書  友人の所有
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# by schale21 | 2007-10-22 09:30 | 平和への構想 | Comments(8)

変動の時代1

”人間の歴史は幸福の歴史ではなく、限りない悲しみと涙の歴史である”
 ヤーコブ ブルクハルト

 歴史の誤謬

人間の常識には多くの誤謬がある。その誤謬はしばしば破壊的である。
そして、その多くは自らの歴史に関するものである。

誤謬の第一は、人類の先史時代、さらにさかのぼって類人猿の時代の自らの姿を、獰猛な動物に素手と粗悪な武器で立ち向かう勇敢な狩人として書いた事。
実際には、戦う力の弱い彼らは、大型肉食獣の格好の獲物に過ぎなかった。
この悲しく、受け入れ難い事実は、今日にいたるまで、人間の歴史と心理に大きな陰を落としてきた。
もう一つの破滅的な誤謬は、人類史を犯罪の歴史ではなく、概ね美しいもの、あるいは向上の歴史、意義に満ちた歴史として描いてきたことである。
いずれの誤謬も、自らを美化したいという心理に基づいている点で共通である。 

凶悪犯罪者が自らの罪の重さを自覚する事は容易ではない。
絶対的な力を持つ他者からの強制がないならば、なおさらのことである。
そして、自らの罪を自覚する能力が絶対的にないものは、もはや犯罪者ではなく、精神異常者である。
精神異常者を罰する事は意味を持たない。ただその暴力が猛威を振るう事がないよう収監するほかはない。でなければ屠殺の道である。

ーーーーー

もしこの宇宙に他の優れた文明があって、彼らがこの惑星を眺めたらなんと思うだろうか。
人間はこういった考察の基に、多くの映画を作り小説を書いて来たが、その内容の多くは、アクレシブな宇宙人が我々を侵略し、それに勇敢な地球人が応戦するというものだ。
だが、果たして本当にそうであろうか。
第一、そのような攻撃的な文明は、他の惑星系に移動出来るほど高度に発達する前に、自らの内紛で滅びてしまうだろう。
攻撃と征服を義とする文明に、未来はありえない。
その攻撃的な宇宙人の姿は、我々自身の姿を映したものにすぎない。

地球を眺める宇宙人はきっとこう思う事だろう。
”おお、人類とはなんというアクレシブで残酷な種族だ! 過去にネアンダータールのような競合する種族を絶滅に追いやり(仮説)、今また、地球の環境と生物そのものを簒奪し、完全に滅ぼそうとしている。そして自らもその残虐な殺し合いの果てに、滅亡しようとしている。
彼らがもし自ら滅亡することなく、充分な技術を持ち得たら、きっと我々を攻撃し、富を奪い、容赦なく殺戮するに違いない。
今のうちに手を打って、この種族を滅ぼすか(死刑)、危険な武器を持たぬよう管理する(収監)ほかはない”

宇宙から見た人類は、精神に異常をきたした、残虐な猟奇殺人者、連続殺人者にすぎないことだろう。

我々を管理する、圧倒的な力を持った異星人を持たぬ以上、この犯罪の歴史に終止符を打ち、未来まで生き延びる条件の第一は、自らの犯罪の系譜を自覚する事以外にない。
歴史はその根底から書き換えられなければならないのだ。


お詫びとお知らせ
個人的な諸事情もあり、更新も不定期な上、内容も訪問してくださる多くの写真関係の方々にとって、つまらないものも多いかと思います。
いつも訪問してくださる方へ感謝申し上げるとともに、今後も不定期な更新となることをお詫び申し上げます。
(次回は写真家ラリー ウイリアムス氏、詩人、独文学者、芳賀檀氏について取り上げる予定です)
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# by schale21 | 2007-10-22 09:23 | 平和への構想 | Comments(2)

運命との闘争

第4回  ドリス ヒック
              平和への意志

”愛する者は愛される者より常に偉大である”
   ライナー マリア リルケ

深夜のウクライナの古都、レンベルグ。
今だ残る家々の明かりは、世界何処の場所も変わらぬ家族の暖かいぬくもりを伝えていた。
中央ヨーロッパの要衝に位置するこの街は、ナポレオン戦争の時代から、戦略上の重要な起点として、幾度も戦渦にまみえてきた。

ナチスに併合されたオーストリア空軍の一軍人である彼は、戦闘爆撃機の乗員としてこの都市を上空から眺めていた。
その彼もまた、家族を思い、祖国を思う父であり、夫であり、息子達の一人であった。

目標にさしかかった。
しかしその目標は、重厚で重々しい軍事工場ではなく、幾多の団欒を伝える家々の窓であった。
彼の脳裏には浮かぶのは、子を思う母の眼差し、父の笑顔、愛し合う恋人達、安らかな眠りに沈むいたいけない子供達、それは彼の祖国の同胞と彼自身となんら変わりのない人間のありのままの姿であった。
今彼の下に眠るのは、彼と同じ父、彼と同じ夫、彼と同じ息子、そして母、妻、子供達である。

命令は下る。投下のレバーに手がかかる。
脳裏に一瞬にして浮かぶ、炎熱の地獄図、家を破壊し肉を引き裂く炸裂。泣き叫ぶ子供達。。
なんという残虐、なんという悲しみ、この蛮行を実行するには、彼の精神はあまりに正常であり、健康であった。
レバーを引く事はついにできなかった。爆弾を投下出来ずに帰路についた彼を待っていたのは、数ヶ月に渡る獄中での独房生活であった。

机上で平和を語る者は多い。
しかし、平和とは、この当たり前すぎるほど当たり前な、人間の精神以外どこにもありえない。すなわち戦争とは、人間が当たり前ではなくなることを指している。
戦争を肯定するとは、人間が連続殺人犯であることを肯定することに等しい。
しかし、歴史の真実は恐らく、人間が人間であると同時に、残虐な野獣、血に飢えた猟奇殺人者にもほかならないことを教えている。


女優ドリス ヒックは1966年、ウィーンに産まれた。
父とは産まれてすぐに別れた。若い母は仕事を厭う夫の姿に耐えられなかったという。
幼いドリスと歳若き母は、母の両親の元ですごすこととなる。
母方の一家はオーストリア社会党の闘士として知られていた。
ドリスの祖父は、ハプスブルグ帝政崩壊後の革命的な内戦の際も、最前線で戦った古参の党員である。
父のいない彼女は、必然、この祖父を精神的な父として育った。
この祖父こそが、先の空軍兵士である。

16才になった彼女は、近隣の化学工場の実験所で職業訓練を受ける事となった。
安全で確実な職場であるはずであった。しかし襲いよる精神的空虚感、自分の本質が別のところにあるという、いたたまれない焦燥感。
それは自己の中に深く眠っている、本来の自己を自覚し表現することこそが、自分の天分であると何かが教えているかのようであった。

堅実な職場を放棄して、彼女が目指したのは厳しい俳優の道であった。
国立の俳優養成学校を終えたあと、すぐにウィーンが世界に誇る伝統のブルグ劇場、ペイマン監督から連絡があった。すでに彼女の才能に注目していたのだ。
しかし、ドイツ語圏最高の格式を誇るこの劇場になんのコネもなく、貴族の家柄でもない彼女が入るには、今だ訓練は不十分であり時期尚早であった。

マスコミでもその才能と美貌から、将来を宿望される新人として幾度も取り上げられた。 
しかし、帝政時代から続く隠然とした階級社会であるこの国で、つてもない無名の新人が成功を収めるのは至難のことである。

思えば、革命戦士であり、ナチスの軍人でありながら、自らの心に従って命令に背いた彼女の祖父がそうであったように、彼女の挑戦は、保守的な体制と権威に対する挑戦であったのかもしれない。

舞台よりもテレビ、映画など、カメラの前での演技は得に冴えた。
彼女がレギュラー出演したテレビドラマシリーズは、空前の大ヒットとなった。
しかし、どこかしら妖艶な魅力漂う彼女のもとには、濡れ場やヌードの場面が多く、本来の才能を活かしきっているとは感じられなかった。何より、芸術家として以外に、単に商業的に自らを切り売りする事は耐えられないことであった。
どのような社会でも、媚を売れない者が生き残るのは難しい。なんの後ろ盾もなければなおさらのことだ。


人の知性には、様々な側面、要素があるという。数学的、論理的知性、スポーツで発揮される知性、芸術に関する知性、社会的知性、そして感性等々。
現代社会では、あまり論理的、数学的能力の側面のみが評価されすぎているといえるだろう。
いわば彼女は感情の天才であるといえるのかもしれない。それほど自らと人の感情に敏感であった。
人の善悪、そしてその人が本物かどうかを瞬時に嗅ぎ分けた。彼女に嘘をつける人はいなかった。
それは俳優として、並外れた天賦の才であると同時に、人生には破滅をもたらしかねない才能でもある。
彼女は少女の時代から語っていた。”憧れの女優はマリリン モンロー。しかし彼女の不幸は嫌だ。私は同時に幸せにもなってみせる。それが彼女がなし得なかったことだ”
モンローの孤独と、絶頂の中の不幸を知り尽くしているかのような言葉であった。

彼女もモンローと同じく、多くの男性を魅了する魅力溢れ、そして限りなく孤独であった。
多くの激しい恋愛はいずれも不幸に終わった。誰人も彼女の孤独を理解出来なかった。

彼女を理解する唯一の男性との愛も実ることはなかった。そしてそれは大きな痛手であった。
母国では才能と可能性を讃えるものはあっても、媚を売らない彼女に充分な報酬と仕事を与える者はなかった。
そして、すべてが八方塞がりに思えた。
もう狭いこの国では道はない。傷つくのはもうごめんだ。もっと広い世界で自分を試したい。

憧れのニューヨーク。モンローが俳優として演技の基礎を築いたアクタースタジオ。
知り合いのコーチであるS女氏から誘いがあったのはそんな時期のことである。すでに27才であった。
黒人のS女氏はトム クルーズやNキッドマンの専属コーチとしても名の通った名コーチとして知られていた。そしてドリスの才能を最も高く評価していたのも彼女であった。
狭く、そして高価なマンハッタンでの生活がはじまった。
仕事の鬼と言われるSコーチの元での訓練は、彼女が納得するまで止む事はなく、しばしば深夜、明け方まで及んだ。
グリーンカードの取得、厳しい経済状況、全てが現実の分厚い壁との闘争だった。
同時期にS ツバイクなど多くの文学作品に触れ、自身の精神的な訓練、向上にも励んだ。
また政治や人間の歴史、戦争と平和の問題に心を寄せ始めたのもこの頃のことだった。
まるで困難と不幸が、人の心を高め広げたかのようだった
アクタースタジオでの公演は成功を収め、DホフマンやRデニーロなど尊敬する名優達からの評価も得た。
しかし、ここでも彼女が最も必要とするものは得る事は出来なかった。
それは充分な報酬と、そして何より内面の孤独の克服である。

ニューヨークでの厳しい鍛錬は、俳優とて大きな向上をもたらした。母国からもテレビ、舞台などの誘いが入り、いずれもヒット作となり、大きな評価も得た。
しかし、それでも彼女の心は満たされなかった。
化学工場のラボで働く少女時代から、彼女の心を苛む何か。その何かに答えは得られてはいないのだ。

いったい何が足りないのか。自分が求めている真実と幸福はいったいどこにあるのだろう。
それは自身だけの成功、社会での名声なのだろうか。
そしてそれを得たとして、果たして本当に満足、幸せはあるのだろうか。

ーーーーー

トルストイは全ての名声、地位を捨てて、一老人として簡素な駅舎で生涯を終えたという。
有名なトルストイの家出である。
80才を越えた彼は、貴族の出自、皇帝でさえも手を出せないとまで言われた名声、そして強靭な肉体と健康。
何も足りない物はないはずであった。だがその彼にして尚、人生とは何か、その意義はどこにあるのかとの問いに、最後まで答えを見いだす事は出来なかった。
突然、家族と全てを捨てて放浪の旅に出た彼は、衰弱の末、無名の放浪の人として死んでいく。

ただ一人の成功を得る事はある意味たやすい。
だが、真の幸福を得る事は、全世界を変革するに等しい難事業でもある。
彼女が、無名にして偉大な祖父から受け継いだ血とは、自身の幸福は、他人の幸福、社会の変革と切っては切り離せないという、他者に対する感受性である。それは切実で切羽詰まった感覚でもあった。
そして、恐らく、自身の深い内面の孤独を克服する道もそこにしかない。

マンハッタンで間近に見た 11.September(世界貿易センターテロ)。
それはあまりに悲惨な体験であった。
これを機に、以前から関心を寄せていた政治的な問題にますます傾倒するようになった。国際政治とアメリカの世界戦略は遠い話題ではなくなった。
それは常に日常の、深夜のタクシーの中で密かにかわされる会話なのだ。
大統領選挙の行方も、市井の庶民は誰もが最初から知っていたという。
いかに物知りげな政治学者が、いかに複雑そうに何かを語ろうとも、それが世の中の庶民の現実なのだ。
それ以前から、イスラエル出身の友人宅からの国際電話は常に盗聴されていた。そんな環境は、世界と自身との関わりを否応にも自覚させるものだった。

いかなる権力も人の心を変えることは出来ない。
それ故、真の権力者とは、人の心を揺さぶる者のことである。
彼女の若き日からの願いは、舞台で、映像で、人の心を揺さぶる俳優になりたいということだった。
見る人の胸に突き刺さるような演技、それが彼女が願ってきたものだった。
まるでそれこそが、唯一平和をもたらす道、世界を変革する道だと心の奥底で知っていたかのように。


彼女の運命との闘争は今日も休まず続いている。
自らコーチとしても、イタリア、オーストリア、ドイツを舞台に、その実力で世界的と言われる俳優を育成することが願いでもある。

人間として成熟した彼女は知っている。内面の孤独と不幸の克服は、全世界を変革するに等しい難事業であると。
自身の不幸の克服は、同時に世界の悲惨に対する挑戦であると。
彼女の戦いは、一女性の個人の戦いではなく、世界を変革する戦いであると。
そしてその道は険しく、ほとんど勝利の可能性のない絶望の道であることも。しかし同時に選ぶべき、唯一の正しい道であることも。

撮影、文、schale
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# by schale21 | 2007-08-15 07:47 | 運命との闘争 | Comments(8)