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Wind of Change

第一回 ショプロン

”僕は聞いた。モスクワのゴーリキ公園に立って。
それは、世界が変わりゆく風のささやきだった”
       Scorpions


1989年夏、私は連日テレビのニュースに釘付けになった。それは私だけでなく、全ヨーロッパ中の人達も同じだったことだろう。

オーストリアの首都ウィーンから、ハンガリーの古都、ショプロンまでは50kmあまり、後のスロバキア共和国の首都、ブラチスラバ(ドイツ名プレスブルグ)まではわずか60km。
このオーストリア、ハンガリーの国境と、ハンガリーの首都、ブタペストの中間あたりに、ハンガリーの海とも呼ばれる巨大な湖、バラトン湖がある。
バラトン湖は、ステップ湖特有の浅い水深による温かい水温と、風光明媚な周囲の景観とあいまって、東欧屈指の夏のリゾート地として知られていた。

当時の東欧諸国の人々にとって、世界は、私達が今日知る世界の数分の一の広さしかなった。それは、一部の外交官や政治家、スポーツや芸術分野での著名人を除いて、一般の庶民が共産圏諸国の外に出る事は生涯叶わぬ夢だったからである。
鉄のカーテンは、文字通り越える事の出来ない、有刺鉄線と銃弾の壁だったのである。

だが、時代は変わろうとしていた。
農民出身の一人の共産党指導者、ミハエル ゴルバチョフの登場によって、残忍なスターリン主義の修正が計られ、”人間の顔をした社会主義”が新たな指標として掲げられていたからである。
私はこの、経済的、社会的必要に迫られていたとはいえ、外からの圧力のためではなく、権力内部からの平和的手段によって成し遂げられた変革、自らの絶対的権力の一部を自発的に放棄するという行為は、いくら賞賛しても足りない人類史的な意義を持っていると考えている。
それは古代インドの伝説の帝王、アショカ大王の先例以来の歴史的快挙であった。
それは、凍てつくシベリアの大地に吹きすさぶ冷酷な寒風に替わって、生命を育む、早春のそよ風にに似ていた。
そしてその早春の風が溶かしたのは、何にも増して、凍てついた人々の心の壁だったのである。

すべての変革は心の変革からはじまる。
故に、人の心の変革を成し遂げるものこそ、真の変革者であり、時代の創造者である。
それはイエスにおいても仏陀においても、また、孔子においてもマホメットにおいても同じだった。彼らは、真に人類の教師(カール ヤスパース)だったのである。

この夏、いつものようにバラトン湖畔は東欧、とりわけ東欧の優等国、東ドイツの人々でにぎわっていた。だが、その人々の間に思いもかけない噂が広まった。
もしかしたら、ソ連の介入なく、オーストリア国境を越えられるかもしれない。
瞬く間に人々はショプロン近郊のオーストリア国境に集った。ハンガリー側の国境はだが、今だ、閉ざされたままだった。
辛く、暗い記憶が蘇った。
それは、重戦車と機関銃の騒音がけたたましく響く、ハンガリー動乱、プラハの春にともなうソ連軍の軍事介入の思い出であった。
閉ざされた国境に集い、不安な日々を送る人々の姿は、ウィーンから世界中に放送された。
クレムリンの動向を伺いながら、決定を躊躇するハンガリー政府。
国境で送る一日一日は、まるで一年のように長く感じられた。
だが、ついに歴史的な決定は下された。
かつての鉄の国境は扉を開けて、人々は長く塞き止められた奔流のように堰を越えた。
ニュースを聞いた人々は、東ドイツ全土からこの国境に集結した。
その、小さな名もなき国境の扉は、人間の新たな時代の幕開けを開く扉だった。


ドイツの世界的ロックバンド、Scorpionsの曲、Wind of Changeはこちらでご覧頂くことができます。

http://www.youtube.com/watch?v=taVW8Kv2HcQ&feature=related



この東ドイツ休暇客のオーストリア越境が、のちのベルリンの壁撤去、ドイツ統一、ソ連崩壊につながる東欧改革の第一歩でしたが、著名な平和学者、児玉教授のご希望もあり、不定期になりますが一連の変動を数回に渡って取り上げたいと思います。
ただし、記事はすべて主観的な一種の思い出としてのもので、客観的、学的術なものではなく、立場や時代によって大きく異なる点があることをご了承ください。


写真、文 schale
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# by schale21 | 2008-02-13 09:28 | Wind of Change | Comments(8)

マウトハウゼンのウサギ狩り  Mühlviertler Hasenjagd


世界で悪いことが多いのは、悪いことばかりを報道するからだ。世の中には善や善人も大勢いる。本来はそういう行動を報道すべきだと語った人がいる。まったくその通りと思う。

オーストリア北部、リンツの郊外で、チェコ、バイエルン国境にほど近い場所にミュールフィアテルという所がある。ミュールフィアテルは、峻険なアルプスに囲まれた国土の中で、美しい丘陵地帯の続くオーストリアの穀倉地帯である。この地には、かつてのナチス強制収容所、マウトハウゼン収容所がある場所として知られている。
ポーランドのアウシュビッツや、バイエルン州のダッハウと同じように、収容所は現在でも歴史の証人ともいえる文化施設として保存されている。

オーストリアとナチスとの関係は複雑である。
ナチスに半ば強制的に併合されたオーストリアだが、被害者の側面と、加害者としての側面とが相互に絡み合っている。政治的併合は強制的ではあったが、故国に進駐するヒトラーを、国民擧げて迎え入れたのも歴史の事実である。1000年近くにわたって、革命も宗教改革もほとんど経験してこなかったこの国の国民は、ローマ教会、ハプスブルグ皇帝、ヒトラーと、圧倒的な権威、権勢を持つものには素直に従った。その意味では、我が日本の国民も同様である。

マウトハウゼンの収容所では、主に東部戦線で捕虜となったロシア人将校たちが収容されていた。
戦争末期の1945年、冬、この収容所で歴史的な大事件が起こった。
マイナス8度の厳冬の中、500人ものロシア人捕虜が収容所からの脱走を企てたのだ。
一部はすぐに捕獲、射殺されたが、300名あまりが付近の森などに逃亡した。
すぐに突撃隊、正規軍、ヒトラーユーゲント、また付近の住民などが駆り出され、逃亡者の捜索にあたることになった。出された命令は、一人も生きて返すなであった。生きた捕虜を連れ帰った者は激しく非難された。
二月の厳冬の中、粗末な囚人服しかなく、多くは靴もなく、食物もなく、森の中を逃走し生き延びることは不可能であった。ほとんどの者は発見され次第、その場で射殺された。また、凍死、餓死する者も多かった。組織的な捜索は3週間にわたって続けられ、捜索はうさぎ狩りと名付けられた。
だが、この残忍なうさぎ狩りを生き延びた者がわずかながら存在した。彼らは終戦の日まで命を長らえ、故国に帰郷することができたのだ。

うさぎ狩りに駆り出された村人たちにとって、ロシアの将校や青年たちは、なんの関係もない見知らぬ兵士、今は惨めで哀れな、武器も持たない痩せこけた囚人にすぎなかった。
ここで村人たちの行動は二つに分かれた。
一つは、ここぞとばかりに、人間狩りをうさぎ狩りと称して残忍な追跡を楽しむ者。
ここでは残虐さは権威づけられ、賞賛される。なにも善人ぶる必要はない。いくら非人間的な行動をしても、咎められるどころか栄誉とされるのだ。普段は堅実で真面目な村人たちは、非情な殺人者となった。容赦なく、厳冬の川や雪深い森の中を逃げ惑う囚人達を射殺した。
だが、そうでない者、たとえ命令でもそうは出来なかった者達もまた少なくなかった。
彼らは逃走者に食事を与え、衣類を与えた農民達であった。その幾人かは、自らの危険を顧みず、農家の納屋や屋根裏にかくまった。捜索がくるたびに、干やがる思いをしながらも、言葉も通じぬ敵国の捕虜をかくまった。その一家の若者は、昼間は自ら捜索隊の一員として駆り出された。うさぎ狩りに参加せねば、反逆者として投獄の危険があったばかりか、逃走者をかくまう家族にも嫌疑がかかったからである。

そんなある若者は、偶然橋の下で瀕死の捕虜を発見する。それは飢えと寒さで見るも無惨な姿であった。彼は発見したのが自分一人と確かめると、密かに食事と衣類を恵んでやろうとする。だが、すぐに村の隣人である同僚に発見されてしまう。
”お前何やってんだ”、普段から内気で優しい青年の性格を知っていた隣人は、彼をせき立て、だまって捕虜を連れ去る。
”だってお前かわいそうだと思わないのか、お前、人間の暖かみないのか”
”何いってんだ、こいつは捕虜なんだぜ、おい、いくぞ”

やむを得ず、ともに部署に連行するが、その先で何故生かして連れてきたのかと非難を受ける。命乞いをする捕虜を容赦なく射殺するナチス将校に耐えかねた若者は、この男がいったい何をしたと叫び、自ら数日間収監されてしまう。
青年の母と妹は、二人の捕虜の世話をしかくまっていた。やがて、各農家の内部まで捜索の手が及び始めたのを察し、自らのみならず、かくまう優しい一家をも危険にさらすことを案じた二人の捕虜は、自ら農家を後にすることを申し出る。だが、老いた母は言う。
私も人の母です。あなたのお母さんも、あなたが生きて帰ってくることを祈っていることでしょう。だからここにいなさい。

やがて春になり、ロシア軍はすでに国境をこえて、ウィーンに迫っていた。
こうして終戦の日まで、9人の捕虜が生き延びることが出来た。

これは名もない農家の庶民の英雄的な実話である。
この世で偉いのはいったい誰であろうか。人間の序列は何かが狂ってはいないだろうか。
そして、尊いとされることも、本当の勇気、優しさとはなんであるかということも。


注 ミュールフィアテルの逸話は1994年に、オーストリアのAndreas Gruber監督のもとに映画化され、多くの人に知られることとなった。映画”Hasenjagd” は、1995年、12万人の観客を集め、この年のオーストリア映画最大のヒットとなったが、ドイツ語圏以外では、ほとんど知られていない。



文 写真 schale
Camera Canon 1Ds
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# by schale21 | 2008-01-26 05:59 | 平和への構想 | Comments(6)

ノースウッド計画 Operation Northwood

”軍産複合体の経済的、政治的、精神的影響力は、全ての市、全ての州政府、全ての連邦政府機関に浸透している”
               アイゼンハワー


数年前のドイツでの調査で、9月11日の事件を報道されている通りの、イスラム過激派によるテロ事件と信じている人はむしろ少数派と言う結果だったと記憶している。すなわち過半数以上の人が、この事件には消極的、あるいは積極的に政府が関与していると感じており、また恐らくは、自国ドイツ政府も正確な情報を持っているが、公表されていない感じていたということである。そして現在ではこの数字はもっと高いかもしれない。おしなべて大陸西欧諸国民が事件に対して持っている印象もドイツと同様である。

一見してこの結果は、西ヨーロッパでの大手マスコミ報道に対する国民の慎重な態度とも受け取れるが、実際には、国民の大半は国益に添う限り、自国報道機関の発する情報には妄信的であることに変わりはないと言う側面もある。
この事は各国の利権と思惑が交錯し、欧州連合の中枢である独仏間でも利権の対立があった、バルカン紛争に関する報道、および国民の態度でも明らかであった。とりわけ、コソボ紛争におけるNATOの直接的、攻撃的軍事行動では、欧州の矛盾は噴出し、専門家、政治家の間で多くの議論を呼んだが、国民の大半は、自国の利権に基づいた報道に疑問を持つ者は少数であった。今日ではしかし、コソボでの経験から、NATO(アメリカ) から独立した指揮権を持つ、EU統合軍の設立が本格的に議論されている。
すなわち西ヨーロッパ国民の大手報道機関に対する不信は、むしろアメリカ政府と、それが発っする報道に対する不信と理解する事ができる。

ノースウッド計画は90年代後半に、アメリカの情報公開法(FOIA)によって知られる事となり、アメリカの著名なジャーナリスト、James Bamfordが発表したNSA(National Security Agency)に関するベストセラー、Body of Secrets(超極秘防諜機関、NSAの解剖学)においてもその詳細が紹介された。この書物は各国語に翻訳され、ヨーロッパの各書店でもベルトセラー本として書棚を飾った。
計画はすでに50年代に練られており、実行が検討されたというが、アイゼンハワー大統領が反対し実現しなかったともいう。その後、CIAが主導してカストロ政権の転覆を計った有名なピッグ湾事件の失敗を受けて、本格的なキューバ侵攻を企てるペンタゴンが、侵攻の口実とするために詳細に練り上げたものである。

計画では、フロリダを中心とする亡命キューバ人の殺害、ミグ戦闘機によるアメリカ民間航空機への攻撃、米軍艦の撃沈、米軍基地へのテロ攻撃、ワシントンなどでの民間人への銃撃等による無差別テロ攻撃、これらの事件をカストロの命令よるキューバ人テロリスト、及びキューバ軍によるものとするためのマスコミコントロールなどが取り上げられている。計画書の署名には、後にNATO欧州軍最高司令官として、コソボ空爆の指揮を執り、大統領候補(民主党)にもなったクレイク将軍の名もあると言う。

民主主義の根幹は、いうまでもなく民意のコントロールにある。その役目を担うのは教育とマスコミだが、内戦を克服した安定した民主主義国家では、攻撃性はしばしば外部に対して向けられる。この数百年間、もっとも多くの紛争を引き起こしたのは、イギリス、アメリカであることを忘れてはならない。またこの両国はプロテスタント国家でもある。現在の民主主義はプロテスタント的個人主義、営利主義に基づいている。
株の乱高下が世評を賑わしているが、このシステムを編み出したのも、自らは富を持たず、植民地経済で潤ったプロテスタント国家、オランダである。
すでにこの個人主義は破綻に瀕している。
私達はこの古い民主主義を克服して、全体(環境)と個がより調和した、新しい民主主義を必要としている気がしてならない。

文、写真 schale
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# by schale21 | 2008-01-25 05:36 | 平和への構想 | Comments(4)

褐色のギリシャ兵

 
芳賀檀の文学

私が研究室を訪れると、ご高齢だった先生はゆっくりソファから立ち上がられ、深々と頭を下げられた後、よくいらしていただきました。お茶はいかがですか、と言われ、決まって自ら紅茶を入れてくださった。それが二十歳そこそこの、一学生に過ぎない自分に対する、大碩学として内外に知られた学者の姿であった。私は、その深淵な文学的著作と相まって、何よりその人格に衝撃的な影響を受けた。
それは自分の人間観を根底から覆すほどのものだった。
(当時、私は文学部ですらなく、法学部で政治思想を学んでいた。勝手に先生を慕って講義や研究室に顔を出していたにすぎない)

ある日の午後、講義の合間に二人でニーチェについて語り合った際、会話に夢中になって時間を忘れ、講義の時間をとっくに過ぎてしまい、走って講義室に向かったものの、学生達はすでに帰った後だったこともあった。今となっては美しい青春の思い出である。
その後、ドイツのフライブルグ大学に招聘された先生に、当地にいた自分が行き違いでお会い出来なかったことが何より悔やましい。後のお手紙によると、私とビールを飲みかわし、朝まで語り合う事を楽しみにされていたそうである。博士の最晩年のことである。だが、常に青春の中に生きておられた先生であった。
学者の道を歩まなかった私は、未だ先生にお見せ出来るような仕事も成し遂げておらず、人格も未熟であることを恥ずかしく思う。自分がこの10年ほど、平和学(戦争学)に関心を寄せるようになったのも、せめて、万分の一でもその思想を継承したいという無意識の思いがあるのかもしれない。

______

芳賀檀を理解出来る文学者は、あるいは日本にはいないかもしれない。なぜなら日本には哲学がない。すなわち真の知識人はいない。そして、それは文壇の世界ではなおさらである。
だが、確実なことは、その精神を理解出来る、無名の青年達は必ずいるということだ。

先生はよく語られていた。”川端が新潟の芸者をいかに妖艶に書いたとて、それが世界の青年に何を与えたか!” ”ノーベル賞などというものは、こちらから与えるものであって、もらうものではない”
日本の文学者では、白鳳(万葉)時代を別にすれば、芭蕉のみ世界文学として高く評価されていた。リルケに並ぶとも示唆されていた。また、近代文学では、父上(芳賀矢一)と交流の深かった鴎外先生と漱石先生を別にすれば、堀辰雄氏のみ、文学的にも人間的にも高く評価されていた。三島(由紀夫)氏とは交遊は深かったが、私自身はその文学についてはなんの評価も聞いた事はない。ただ、時折、彼と付き合っていたおかげで、右翼とよく間違えられ困ったと笑いながら語られていた。だが、晩年編集された詩集、アテネの悲歌では、死に際して三島に贈る詩を残されている。その文学的才能は認めておられたのは間違いない。

専門とされていたのはもちろんドイツ文学であるが、日本をはじめ、世界文学、哲学に造詣が深かった。
フランスの実存哲学者、ガブリエル マルセルと交遊も深く、フランス文学についてもよくお話を伺い、言葉も堪能で、ビクター ユゴーやポール ヴァレリー、スタンダールを特に高く評価されておられた。
とりわけ、ヴァレリーの貝殻の唄は、リルケに通じるものとして、しばしば言及されている。

師とも恩人とも慕われていたヘッセの作品の中では、若き時代のものをより高く評価されていたのが印象に残っている。
リルケについてはもちろん第一人者であり、世界で最初にドイノの悲歌を外国語に全訳されたことを大変誇られていたが、反面、この歳になっても、その深遠さはいまだに本当にはわからないと正直に語られていた。
また、キリスト教と西洋近代史には大変批判的で、晩年は自ら仏教徒ともなられたようだ。 
この点では、晩年に交遊を持たれていた池田大作氏の影響もあったようだ。内外に何かと批判の多い池田氏であるが、先生はそんなことは歯牙にもかけず、30歳以上年下の池田氏について、”池田先生は天才である。自分の交流は光栄この上ない。先生はアンドレ マルローやアーノルド トインビーとも対談されているが、マルローが訪日の際、朝日新聞が日本を代表する文化人として知られる、Kとの対談を企画したが、Kはくだらない話ばかりして、マルローはしまいにあくびをし始め、対談にもなにもならなかったという。日本と世界の頭脳にはそれほどの差がある。日本で20世紀を代表するような哲学者と対等に話が出来るのは池田先生だけである”と何度も自分に語って、この点についても衝撃を受けた記憶がある。

博士の著作は、文芸評論家として高名だった戦前のものと、晩年のものに大別される。
その間の多数の翻訳や、評論集はよく知られた通りである。
だが、若き日から、その文学的精神の規準はなにも変わっていない。晩年には、その美しい精神を、詩や戯曲にこの上なく見事に昇華され、描き出された。
最後の著作の一つである”死について”では、癌を宣告された自らの体験を通して、哲学史を再度見直され、さらにそれを一般の人々が誰でも触れられるようにするために努力された。
高潔な精神も、深淵な文学も芸術も、そして死というもっとも切実な実存の問題も、全てあたりまえの人間に奉仕するものであるということが、その哲学の要諦であったからだ。
”芸術のための芸術”という命題も、政治や経済に利用される事なく、人間のための芸術であり続けるという宣言にほかならない。ハイデッガーのもとで共に学んだサルトルの、”アフリカで飢えた子供が死んでゆく間に、芸術はなんのためにあるか”という有名な命題をしばしば引き合いに出されていた。
そこに浮かび上がるのは、人間から離れた青白い近代のインテリの姿ではなく、古代ギリシャの理想の姿、健康で誇り高い男子の姿である。
博士のドイツ時代のあだ名は”褐色のギリシャ兵”であったという。それはステファン ゲオルゲやベルトラムが名付けたものだったのかもしれない。だが、これほど先生の姿を伝えるにふさわしい言葉もない。
テニスやスキーも愛好され、留学時代には、現地の人々以上の腕前であったことをよく誇りにしておられた。

私は、ここに、失われて久しい、全人的な真の知識人の理想の姿を見る思いがする。
真の知識とは、人間と宇宙、幸福と平和への知識であって、それは絶対的な健康を伴う知識である。
今、人類が、心身ともに衰弱しきって、死滅の際にあるこのとときこそ、再び古代の理想の姿を思い起こすべきではないだろうか。


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# by schale21 | 2008-01-12 04:31 | 詩と文学 | Comments(2)

褐色のギリシャ兵 - 芳賀檀の精神

『いつになったら又御目にかかれるのでしょう?
私達は、世界の限界の深部に於いて再びめぐり合うであろうと師は云われました。
曾てヘラクレイトスや印度の詩人たちが言ったように。ーーー
私にとっては師とともにすごした日々こそ真の故郷です。
師は再び私をあの河の畔りで優しく待ちうけていて下さるでしょうか?
曾て私達が逍った河の畔りで。ーーーあの輝く大理石の円柱の傍らで』
                                             芳賀檀    友情の書より



 出会の奇跡

”全て人間と世界への信頼を失った私にとって、もはや生は無意味なものだった。
死を決意した私は、ケルンを流れるラインの河畔を彷徨った。
ラインの流れは早く深かった。
すると前方から、黒い服に身を包んだ、一人の背の高い男性が向かってくるのが見えた。
それは、普段からその講義を傾聴し、敬愛していたケルン大学のベルトラム教授であった。
私を見て、ただならぬ様子に気づいた博士は、どうかなさったのですかと優しく声をかけてくださった。
博士は私の話を聞いた後、その花に囲まれた美しい庭園のある自宅に招き、勇気づけてくれた。
博士の偉大な精神は、私の卑小な心を包容し、そして昇華させるかのようだった。
私はそれまでの狭い世界が崩れ落ち、全く新たな世界と生がはじまるのを感じた”

ーーーーー 

私の恩師、芳賀檀博士がケルン大学教授エルンスト ベルトラムの元に学んだのは、1930年代のことであった。ベルトラムはニーチェ研究の大家としてすでに高名であった。
その以前は黒い森の麓の大学町フライブルグで、ハイデッガー、現象学の提唱者、フッサールのもとで主に哲学を学んだ。同期の学生で最も有名なのがサルトルであった。
サルトルは後に、ハイデッガーの哲学を独自の解釈で文学化したが、ハイデッガー自信はサルトルの文学、哲学を自分のものと同じとは認めなかった。
しかし現代においては、文学と哲学は同じ根を持つ二本の木と語って、ともに人間存在の解明こそその使命であると表明している。この意味において、哲学的思索なき日本の文学は、近代的な世界文学の名に値しないと芳賀博士が考えたのも当然であったろう。
 
ハイデッガーの師であったフッサールはすでに退官していたが、彼のフライブルグの自宅で、外国からの研究者に現象学を紹介するため、少数の個人的なサロンがもたれていた。芳賀檀はその中の一人だった。
ケルンでベルトラム教授に師事した際は、ベルトラムを取り巻く、芸術至上主義者達と親しく交遊、深い影響を受けた。その友情は終生変わらず、中でもハンス カロッサ、シュテファン ゲオルゲ、ヘルマン ヘッセとの交流は最後まで続いた。
そしてドイツ留学時代、最後に学んだのがエルンスト ユンガーである。
日華事変にともない、ベルリンから帰国の途につく芳賀博士を見送ったのはユンガーであった。
最後まで、ホームから姿が見えなくなるまで手を振ってくれていたその姿は、終生忘れられなかったという。ベルトラムとともに,芳賀博士に学問の深さのみならず、その人格を通して敬愛せしめたのも彼だった。

ユンガーもベルトラムも芳賀も共通する事は、常に誤解と無理解にさらされ続けた事である。
極端な評価と誹謗は生涯その身を包み、常に孤独であった。
だが、その人格は卓越しており、歴史を見下ろすような巨視的な視野は、20世紀の精神史の巨人であるというにふさわしい。そして、その精神に対する無理解は今日でもいささかも変わらない。

人類は、ヘルダーリンを発見するには第一次大戦の悲惨を経なければならなかった。
やがて未来の人類が、その新たな悲惨を持って、美と深淵の悲劇を、贈与の精神の深さをやがて理解する時が来るのであろうか。

ーーーーー

檀の父、芳賀矢一は、明治きっての文化人として、明治政府肝いりの学者の一人であった。
ドイツ文芸学を日本に移入すべく、ドイツに渡った矢一の下には、森鴎外、夏目漱石などの文人が頻繁に訪れ、芳賀邸はさしずめ、文学的なサロンの様を呈していた。
矢一は息子の檀にドイツ語で教育を授け、そのおかげで檀が東大に進学する頃には、大学のどの教員よりもドイツ語が達者だったという。
東大ではシラーを専攻していたという檀は、ある教員のすすめでドイツに渡った。
費用は大学で負担し、帰国後は教職が約束されているはずであった。
当代を代表する大学者達のもとで学ぶ学問は、日本のそれとはあまりに次元をことにするものだった。
約束の費用はいっこうに届かなかったが、後に人参をかじりながら学んだその時代ほど充実した時はなかったと語っている。

そんな時、ケルンに在学中の芳賀のもとに届いた手紙は衝撃的なものだった。
”状況が変わったので、以前の約束はなかったことにして欲しい。費用も送る事はできない”
後になってわかったことは、ドイツ留学とは、体よく芳賀を大学から追いやる画策に他ならなかったことである。それは芳賀を妬む人々の画策であった。
金のことでもない、生活のことでも将来の地位のことでもない。
芳賀を傷つけたのは、心を引き破る人間のその残酷さであった。
それは名家である芳賀邸に育ち、人間を信頼することこそ美徳と信じ教えられて来たものにとって、世界が崩壊するに等しかった。
人の裏切り程残酷なものはない。この世で最も美しいものが友情であるならば、この世でもっとも恐ろしく残酷なのも人の心である。

死を決意した芳賀はラインのほとりを夢遊病者のように彷徨った。。。
この時のベルトラムとの出会いはまさに運命だったのかもしれない。もしこの世に運命というものがあるのならば。
人生に意義があることを示す唯一の方法がある。それは、人間の愛と友情が、死を越えて力を持ちうるという事実を知る事である。
それ以外の全ての思想は、ニヒリズムに行き着く他はない。
死すべき存在である人間は、死を越える力を得てはじめて、その存在の意義を知ることができるのだ。
 


付記
その後芳賀は日華事変勃発を機に帰国。
保田与重郎などと共に日本浪漫派の代表者となる。『古典の親衛隊』、ナポレオンを題材にした『英雄の性格』、『方法論』など多数の文芸評論を手がけ、若手文芸評論の騎手と目された。
しかし、戦中もナチスのユダヤ人政策などに明確な批判を加えたにも関わらず、戦後、文化人戦犯として問われ、事実上、日本文壇から抹殺される。この規準では日本のほとんど全ての文人、文化人が芳賀以上の戦犯であるにも関わらず、罪を逃れたのは、彼らの節操なき戦後の変わり身の早さを示す以外の何物でもない。
彼らの書いたものを一瞥するだけで、人間とその歴史の真実とはいかなるものか、その一端を知ることができるだろう。
戦後は諸私立大学で教鞭を取る傍ら、フルトベングラー、ヘッセ、ニーチェ、カロッサ、キルケゴールなど多くの翻訳を手がけた。
晩年に、それまでの思想を集大成するかのように、詩集、戯曲集を出版(詩集アテネの悲歌、詩集背徳者の花束、戯曲集レオナルドダビンチ、戯曲集千利休と秀吉など)。また最晩年に念願であったヘッセ著作集も手がけた。


ドイツ時代の芳賀檀 1934年

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若き日のハイデッガー
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M ハイデッガー、E フッサール
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E ベルトラムの主著, ”ニーチェ、ある神話の試み”
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# by schale21 | 2008-01-11 08:49 | 詩と文学 | Comments(1)